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スルメイカが焼けるまで待って

だらりと垂れていた右腕を、ゆっくりと円を描くように上昇させる。両手首にスナップを効かせて、くねくねと揺り動かした。

次に、身体全体をうねうねと捩りながら、鳩尾を覗き込むようにして背中を丸めていく。

「スルメイカの真似」

「ぶふぉ…!」

呟くと、目の前にいる男が口の中に含んでいた液体を盛大に噴き出した。「な…なんじゃぁ…!こりゃぁ…!」と白々しくも、大惨事になった手の平をワナワナと震わせている。彼が噴き出したのは血ではなく、サングリアだ。この間、親戚から届いた大量のオレンジと林檎、それからスーパーで買ってきた苺をいくつか一緒に漬け込んだ、安いワイン。数滴、被害を受けて若干しかめ面になったわたしの顔面を、彼が袖を伸ばして丁寧に拭ってくれる。

俺もやりたい!というリクエストにお応えして、フライパンで踊るスルメイカが具合良く焼き上がるまで、二人で形態模写を続けることにした。気分は、欽ちゃんの仮装大賞といったところだろうか。ただの暇を持て余した酔っ払いの戯れである。サングリアが美味しく出来すぎてしまったのだから、仕方がない。まだ作りかけのお酒もいくつかあって、堪えが効かなくなって開けてしまわないように、水屋に眠らせてある。もうそろそろ、冬に漬けた柚酒が飲み頃だろうか。庭になった柚は凍てついてしまって、ほとんどが駄目になっていたけれど、皮は切り干しで薬味に、実は種子を除いて焼酎の瓶に沈めた。食べ頃と飲み頃、果実は一年に二度収穫できるところが愛らしい。

「俺だけあした筋肉痛になりそう」

「それな」

自分がやりたいって言ったのにな。それな。

彼が皿に絞ったマヨネーズの頭上から、わたしが七味唐辛子を散りばめる。コツは高い打点から振りかけることだ。お陰で皿の外に赤い粉が飛散した。悲惨である。片付けが面倒くさいので「な…なんじゃぁ…!こりゃぁ…!」という捨て台詞だけを吐いて、あとは明日の自分に託すことにした。仕上げに甘だれ醤油を白い頂に小さく落とし、ついでに冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出す。香ばしくなったスルメをすでに皿に移し終えた彼が、急かすように足踏みをしていた。そのままの陽気な足取りで、基地のある2階に駆け上がっていく。

こんな急いで誰かと一緒に階段を上ったのは、小学生以来かもしれない。こんなに毎日笑っているのも、たぶん、小学生以来だ。毎夜、炬燵で肩を並べながらバラエティ番組に各々が素っ頓狂なコメントをし、アニメを観ては原作で続編が出ていないかを調べ、たまにTVゲームをする。趣味は概ね合致しているものの趣向がけっこう異なるから、互いのお勧めを共有し合って過ごす。

彼は、わたしにとって友人のような存在であり、そして人生の伴侶だ。酒を啜りながら電気の消えた台所でスルメイカが焼けるのを待つあの数分が、毎日が、じりじりと愛おしいのである。


息を吸って、吐きます。