見出し画像

やっぱり愛だよ、愛(令和6年7月2日)

相変わらず、ムシムシ。1日中。

実写版ドラマ「ブラック・ジャック」がやたら評判が悪い。

そりゃそうだ、手塚ファンおろか、ある世代にとっては強い思い入れのある物語を、そのキャラクターや構成を変えてしまっては、大きな反発が免れない。それを今回の制作サイドは、そのことを甘く考えていたに違いない。

この手塚マンガのマスターピース、傑作を、もしかしたら「数多くあるマンガのひとつ」ぐらいにしか感じていなかったかもしれない。作り手のほとんどが、生前の手塚を知らない、その影響力もわからない、ということもあるからだ。

最近、マンガのドラマ化全般が評判が悪いのも、こういった原作者に対する敬意の欠損した、単なる売れるように、視聴率を稼げるように、それでいて何か問題をおこさないような、穏便な「商品化」が問題なのだろう。

閑話休題。ここでむりやり話を落語に持っていく。

落語の場合、古典中の古典、名作を「改作」をしても、マンガのトラマ化のように、ファンから猛烈な非難を浴びることはまずない。「改作」の全部が全部、面白いとは言わないが、一方で極端に否定的な意見は聞かれない。もちろん、一部の古典原理主義主義者や、「女は噺家に向かない」と未だに盲信している頑固なファンはいるにはいて、様々な「改作」を否定はしているけれど、概ね大抵のファンは、鷹揚に古典落語の「改作」を受け入れれいる。

それはどうしてかと考える時、試行錯誤しながら「改作」を作る噺家の姿勢と思いが、ファンにストレートに伝わるからだと思う。マンガの場合も原作者であるマンガ家が、まさにこころを削り身を削り創造したオリジナル作品に、ファンは感動を覚え共感する。落語もオリジナルの古典があるとはいえ、それをあらためて自分の身になるまで、リクリエイト、再創造して「改作」するのであって、それは(某師匠の言葉ではないけれど)落語に対する「愛」なければ到底出来ないことであり、落語ファンはまさにそこに共感する。

これからの時代、落語がエンターテイメントのひとつとして生き残っていくには、時代の要請として、その時々にあわせた古典落語のリクリエイト、再創造は必要になってくる。脈々とオーラル(口伝)アートして伝わる古典落語も重要だが、多くのひとたちに受け入れられ、楽しんでもらうには、噺家芸人ひとりひとりの「愛」が感じられる落語も必要だろう。

やっぱり愛だよ、愛。

あなたならどちらの「ブラック・ジャック」?

よろしければ、サポートをお願いします。いただいたサポートは会の運営、出演者様への謝礼の一部になります。