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駅からさんぽ ~番外編 稲美町 万葉の森へ行ってきました 後編~

こんにちは。
ぐっでぃテレビのゆっちぃと申します。

駅からさんぽをお読みいただきましてありがとうございます。

今回も、前回に引き続きまして、駅からさんぽ、番外編、兵庫県加古郡稲美町、万葉の森へ行ってきました、後編をお伝えいたします。今回は、初めて明石市を飛び出してお伝えしてみました。秋を感じる万葉植物の日本庭園は日本の風情たっぷりでした。万葉の森の隣には郷土資料館もありますのでそちらへも行ってみました。

それでは行ってみましょう!

園内はなかなか緑が綺麗です

万葉の森は120種類の万葉植物が育てられていて、万葉集の歌碑も添えられています。

芝生もあってとても心地よい空間です

また、庭園は池もあり、その近くには園内を一望できるあずまやがあります。気持ちの良い日は綺麗な景色を見ながらお弁当をいただくのもよいものですね。撮影のこの日もお弁当食べている方がいらっしゃいました。

「柿本人麻呂」の歌がありました

園内を進んで行く中で、こちらの歌碑がありました。花壇の中にはこれから咲こうとしているのか、緑が綺麗な植物がありました。「はまゆう」、ひがんばな科の植物だそうです。
調べてみると、「はまゆう」とは「浜木綿」、ハマオモトという植物で海辺に生えるヒガンバナ科の多年草だそうです。夏に白く咲く花が、木綿の白い布で作られたように見えることから浜木綿(はまゆう)といわれています。また、幾重にも葉が重なっていることから、思いが重なるという、「幾重なる」「百重なる」などを起こす序詞となったようです。
「熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、幾重にも幾重にも百重にもあなたのことを思っていますが、直接には会えない・・」という恋の歌だそうです。この歌は切ない恋心を歌った内容でした。。

池が見えてきました
池は印南の海をイメージして作られています
池の中ではスイレンが育っているようです
庭園をあとにします

最初に憩いの館で頂いたお茶がのどを潤してもらったのでとても気持ちよくさんぽすることができました。花の時期は少し通り過ぎてしまっていましたが、秋から冬への身支度が始まる手前のこの季節、まだまだ植物も緑が綺麗でした。手入れが行き届いている証拠なのかもしれませんね。また、花の季節に訪れてみたいと思います。

万葉の森をあとにして、次はお隣の資料館へ行くことにしました。
その手前に、「播州葡萄園歴史の館」なるものもありましたので見に行くことにしました。

播州葡萄園歴史の館
建物内部の資料

この稲美町で明治13年、西暦1880年に葡萄園が開園しました。明石市からとても近くにある稲美町ですが、葡萄園がかつて存在していたという事実をこの歴史館に入るまで知りませんでした。
雨が多い地域でもないため、水が欠かせない稲作農業発展のため、ため池が多く作られたことは知っていましたが、それよりも前の明治時代の話となると、明石に住んでいるためか稲美町の歴史を聴く機会がなかったのだなと実感しました。

葡萄園について少し調べてみると、葡萄園の遺跡が見つかったのが平成9年(1997年)2月でした。町職員の方が葡萄園の存在について知る機会があって、色々調べているうちに、官営の葡萄園であったその場所を特定し、遺跡を発掘する機会を得ました。
葡萄園の開園にあたっては、明治13年当時の加古郡長の北条直正(ほうじょうなおまさ)さんによって葡萄園の誘致が実現したのでした。もともと川のない土地で、農業ができず、畑で綿花栽培をしていたそうですが、明治時代の地租改正によって地税が課せられ、さらに大干ばつも重なり、地域は崩壊寸前だったのです。北条さんはこのような地元の窮乏に心を痛めていました。そんな時に、政府が国策として行う「葡萄園の候補地募集」の公告を知り、葡萄園を誘致して、国に土地を買ってもらおうと、政府へ陳情し、誘致に成功したのでした。
この播州葡萄園については、講習会や成果の共有もされていて、岡山県のマスカットは今ではとても有名ですが、播州葡萄園より持ち帰ったブドウ苗とガラス温室栽培法を発展させて成功し一大産地となったそうです!
と調べていると、この葡萄園から現在では当たり前となっているブドウのお話が出てきてとても驚きました!
葡萄園については、資料があまり残っていないそうですが、遺跡発掘時には、ワインが入ったままの瓶も発見されたそうです。
葡萄園に限らずですが、人々の暮らしをなんとかしたいという思いからいろんなものが発展していくのですね、改めて感じた播州葡萄園歴史の館でし
た。

ワイン工場跡発見!新聞記事にもなりました

さらにお隣へ進むと、稲美町郷土資料館があります。そちらへも行ってみることにしました。

稲美町郷土資料館

中へ入ると、左手に受付があり、資料館の方が出迎えてくださいました。右手に資料館がありますので入らせていただきました。

入り口右横には資料が展示されています

三木飛行場って知ってる?と掲示されていました。昔母から聞いたことがあったのですが、稲美町と、隣接する三木市と加古川市を含む広い台地に太平洋戦争末期に造られた飛行場がありました。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、あまり知られていないその飛行場は特攻隊訓練の飛行場になっていったそうです。

資料館の中には昔の生活に必要な道具の展示に屋台の展示もあります

資料館の中へ入った際に、まず目に入ったのが、昔使われていた水甕(みずがめ)、唐箕(とうみ)、竈などの生活に必要だった道具類の展示がありました。
昔、祖母の家で唐箕(とうみ)を見たことがあるような気がします。母に確認すると、母の子供時代はやはり唐箕を使っていたそうです。私は昔使っていた唐箕が置いてあるのを見たことがあったようで、私が子ども時代はやはり機械化が進んで唐箕を利用することはなかったようです。

鉄砲風呂は初めて見ました
奥には萬石という農機具なんかも展示されています
天満神社のお神輿

天満神社とは稲美町にあります、国安天満神社になります。写真には天満大池に神事としてお神輿が池に入ります。この天満大池での神事を私はまだ見たことはないのですが、池の中に入れられ、さらに池の中を練り歩くそうです。稲美町内の各地域では屋台練りと獅子舞が奉納されています。草谷天神社の赤い座布団が付けられた、布団屋台を担いで神社の急階段を昇られる氏子の方々の姿を見たことがありますが、とても力強く担がれている姿は圧巻でした。

黒電話に計算機も

祖母の家は黒電話でした。回してかけるのが好きでよく祖母の家から自分の自宅へかけていたことを思いだしました。
昔はありましたが、現在にはない職業で電話交換手というお仕事も聞いたことがあります。黒電話で思い出しました。

稲美の始まり

資料館は、稲美の始まり、縄文時代から見学できるようになっています。
稲美町では遺跡遺物があまり発見されていないようです。

遺跡遺物発掘場所
どちらも1300年代に作られたもので町指定文化財
稲美町出身の活躍された方々

稲美町郷土資料館も見学し、稲美町がどんな街なのか、どんな歴史があったのかをほんの少しかもしれませんが、知る機会ができました。
大昔から万葉集で詠まれるほどの奥ゆかしい場所であり、水不足との闘いを長年してきたこと、疎水事業によって、ため池によって、農業への転換が出来たことなどなど、たくさんあります。
いろんな方々の努力が今の稲美町を作っているんですね。
またそんな稲美町にお邪魔したいと思います。
稲美町には魅力的なお店も増えていますので気になる街であります。
みなさんもお近く寄られた際はぜひぜひ遊びに行かれてみてくださいね。

前回に引き続き、長いさんぽにお付き合いいただきありがとうございました。

では、次回の記事でお会いしましょう。。

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