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【同人小説】湿度37パーセント

ゆかゆゆ(八雲紫&西行寺幽々子)の古い小説が見つかったので供養。

あなたがいない

冬は晴れた日が続くと、空気が簡単に乾く。
 白玉楼の母屋の裏に干した洗濯物は午後になれば糊付けしたように張りが出るし、冬の空気は決して悪いものではない。
 そう思っているのは実際に物干しの前に立つ妖夢だけでなく、この館の主人もまたそうだ。
 彼女、西行寺幽々子は白玉楼の縁側に座ると、一人息を吐いて遊んでいた。冷たく張り詰めた空気に自分の吐息を混ぜると、呼気に含まれる水蒸気のせいで口元の空気が濁る。
 まるで白い墨絵のようで、幽々子はこれを冬の風流だと思っている。
 鼻から冷たい空気を一息吸って、体の中で温める。一旦息を止めて、ゆるく開いた唇の間から吐息を漏らす。
 今日は何度こうして遊んだことか──数えるのを忘れてしまったけれど、彼女は長いこと煙る息に心を奪われていた。
 手がなんとなくかじかんできた。いつまでこうしていようか。
 幽々子は考えながら、自分の体に違和感があることにふと気付いた。

 「あら、これは……」

 水色の着物の下、背中がむずむずする。
 織物の繊維が背中を刺激しているのかもしれない。あるいは、この乾燥した空気が肌を刺すのかもしれない。
 一度気になりだすと、肌の痒みがどんどんもどかしさを増していく。
 幽々子は少し声を張って、妖夢を呼びつけた。

「妖夢、ちょっといいかしら」

 従者は幽々子のもとに素早く参上した。この早さは妖夢の主人への服従の証だ。

 「何でしょうか、幽々子様」

 妖夢は片膝をついて幽々子の用を確かめる。板張りの縁側についた膝小僧は冷たかろうに、と幽々子は察すると、用件だけを伝えた。

 「孫の手を取ってきてほしいの」

 「孫の手、ですか……? 背中でもお痒いのですか」

 きょとんとした妖夢は、幽々子の目を見る。主人の真意を掴むには、この少女はまだ幼すぎる。

 「でしたら、私が掻いて差し上げます」

 「いいのよ、孫の手を取ってきて頂戴」

 「でも、痒いのですよね。孫の手を取ってくる時間がもったいないです」

 言葉と同時に、妖夢の手が幽々子の背中に伸びた。
 だが、幽々子はその手を払いのけ、少し強い口調で言う。

 「いちいち全てを言わせないで頂戴、妖夢。私の背中に触れていいのはあなたじゃないのよ」

 妖夢の手が宙でさまよってから、ゆっくりと彼女の膝の上に帰って行った。

 「かしこまりました、すぐに持ってまいります」

 従者が膝立ちから体勢を変え、踵を返して去っていく。ギシギシという板張りの音が響いた。
 幽々子はそれを聞きながら、別の者のことを考えていた。

秋の思い出 

 それは今からさほど時間を遡らない。秋の終わりの頃である。
 幽々子は縁側で、隣に並ぶ長い金髪を手で梳いていた。
 金髪の主はいくつかの毛束を赤い紐で結んでいる。妖夢たち白玉楼の者は、その人が幽々子を訪ねて来た時は邪魔しないのが約束だ。

 「また冬が来るのね。一年って早いものだわ。ね、紫」

 紫と呼ばれた妖怪は、髪を撫でる幽々子の手に満足そうな顔をしている。宝石のような目を薄く開き、唇には薄い笑みが咲いている。

 「そうね。また冬が来てしまうわ。……ねえ、幽々子。人間は年をとればとる程、月日が経つのを早く感じるそうよ。妖怪や亡霊はどうなのかしらね」

 「それはその時何をしているかによるんじゃないかしら?」

 「ほう。どういうことかしら」

 数秒かけて、紫の目が見開かれる。瞳は隣に座る幽々子をとらえ離さない。

 「だって、何かに夢中になっている一日と、何かをひたすら待っている一日は長さが違うわ」

 それもそうね、と紫は幽々子に返事をした。幽々子は続ける。

 「刺激に溢れる毎日が続くと、季節が過ぎるのが早いわ。だけど、冬は違うの。春を待つ一日一日が、そして何より夜が明けるまでが長くて」

 幽々子は全てを語らなかったが、冬の長い夜に彼女が何を待っているのかは紫には明白だった。
 彼女らしい愛情表現に、紫は再び目を細める。
 そして横並ぶ幽々子の肩に手を回し、自分の方へ引き寄せた。
 幽々子の頭が紫の顔の下へ倒れこんでくる。
 瞬間、縁側に風が吹き抜けた。

 「……あら、木枯らしね」

 風はざわめき、幽々子と紫を囲むように話し出す。おしゃべりは長く続き、紫の長い髪が木枯らしに乗ってなびいた。
 やがて風がおさまると、紫の髪は元の通りに落ち着く。
 だが、今度は幽々子の体を刺激するものがあった。

 「ねえ、ちょっと……紫、痒いわ」

 「どこが?」

 幽々子は紫の腕の中で身じろぎする。抱きとめられた格好から抜け出したいわけではなかったが、もぞもぞと肩甲骨を寄せたり離したりした。

 「背中。何かしら、急にむずむずするのよ」

 「ちょっと待って頂戴、掻いてあげるわ」

 紫は幽々子の背を立て、自分に背を向けさせた。頭を少し前に倒してやってから、どの辺りが痒いのか確認する。

 「背中の上の方、少し右側が痒いわ」

 「ここかしら」

 紫の手が、幽々子の着物の襟を少し引いて、そこから彼女の背中に触れた。手は温かくも冷たくもなかった。

 「もうちょっと左、……あ、そこよ、そこ」

 「まったく、ワガママなお嬢様だこと」

 幽々子の着物の下で紫の指が動き回る。猫の手のように指先を丸め、でも爪で肌を傷つけないように慎重に掻いた。
 指が背中で八の字を書くと、そこで紫は気づく。
 何か、細いものが背中の上ある。
 紫はそれを指でつまむと、一気に手を引き抜いた。

 「何をするの、紫。もう少し掻いてよ」

 「もう痒くないはずよ、だって痒い原因は取り除いたもの」

 「どういうこと?」

 幽々子は振り向いて紫を見た。紫は親指と人差し指で何かを挟んでいる。そこに挟まっていたのは、金色の長い髪の毛だった。

 「あら、これ……紫の髪の毛?」

 「何かの拍子で幽々子の背中についてしまったのね」

 「それならきっと、さっきの木枯らしだわ。あの風の間じゅう、紫の髪が私のことを撫でていたのよ」

 紫の髪の毛が一本風に踊って、幽々子の抜いた襟から背中へ入り込んでしまったのだろう。
 幽々子が顔を近づけ、一本の髪の毛をまじまじと見た。その表情はどこか楽しそうでもある。
 そんな彼女を見た紫は、二本の指で髪の毛をよじると、そこに向かって息をふっと吹いた。息を吐いた瞬間に指を離す。
 なんの声も出さず、幽々子が表情だけを変える。
 幽々子と紫、二人の目が舞う金の髪の毛を見ていた。金糸は縁側から庭へ吹き飛ばされる。
 その瞬間、もう一度強い風が彼女たちに吹いた。
 一瞬で見えなくなった金の毛を、紫はただ見つめる。
 髪の毛を見つめているのか虚空を見つめているのか分からなかったが、幽々子には彼女の姿がいやに鮮明に焼きついた。
 消えてしまいそうなほど儚げで、でも存在を隠せないほど力強かった。
 そんな紫の姿を、幽々子は今もはっきりと覚えている。

霜柱の中庭で 

 一人座る縁側は時間が進むのが遅く、紫を待つことはおろか妖夢を待つのもくたびれてきた。
 幽々子は足を伸ばし、縁側から庭へ降りる。
 霜柱が足元でくしゃっと音を立てた。
 ここに紫の金の髪があるはずもないと分かっているのに、幽々子は地面をじっと見る。
 ため息にならないように気をつけながら息を吐くと、それは白い煙になって立ち上っていく。

 「幽々子様、お持ちしました」

 遠くから妖夢の声がした。板張りを歩く音とともに、妖夢が孫の手を持ってくる。

 「あら、妖夢。ありがとう。でももう大丈夫よ」

 いつの間にか、幽々子の背中の痒みはどこかへ消えていた。
 妖夢を下がらせて、幽々子は空を仰ぐ。

 「私の背中に触れていいのは、あなただけよ」


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