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ニコが生まれたときのこと

妊娠は幸せの象徴だろうか。私にとっては違った。幸せより恐怖だった。無事に産めるかどうかという恐怖。出産の痛みに対する恐怖。かけがえのないものができてしまった恐怖。しかも、それをどれほど大切に育てたとしても、いつ失うかわからない未来への恐怖。

赤ちゃんは愛しい。最初のエコー検査で先生から「いい場所に着床してるよ、大丈夫だよ」と言われた時に、生まれる前の短く長く過酷な旅をがんばって乗り越えたんだなあと泣けるくらい。

でも、心を埋め尽くす恐怖に身動きが取れなくなって、考えるのをやめていた。

お腹の中ですくすく育つ赤ちゃんに話しかけたりもしたけれど、どこか上の空だった。私の中の「妊婦」が夫と一緒になって話しかけているだけで、ガラス越しにそれを眺めているような。

「妊娠は、どういう形でも出産して終わらせないといけない」

助産師さんが妊婦教室で言った言葉が私を励ました。そう、終わらせるしかない。妊娠したら産むしかない。そして産んだら育てるしかない。そこでグズグズ悩んでも仕方ない。頭で必死にそう言い聞かせて、感情をミュートにして、ひたすら「終わる」のを待った。

ニコは、たぶんそんな怖がりな母を見るに見かねて、予定より2週間も早く胎児としての生活を切り上げることにしたのだと思う。出産のタイミングは赤ちゃんが決めるらしい。母体はあくまで道をつくるだけ。出産の主役は赤ちゃんだ。

陣痛が始まってからも、私は情けないったらなかった。痛みを計測する機械がまだ最大の痛みではないと告げるたびに、「これで最大じゃないって、いったいどんなのが来るの?怖い、怖い、怖い」と気が気じゃなかった。夫との出会いからクリスチャンになった私は祈るのが日課だけれど、母親らしく赤ちゃんのために祈る余裕もなかった。ただひたすら、自分のために、助けて欲しいと祈っていた。

「早く終わって欲しい、でも痛いのも怖いのも嫌だ。とにかく助けて!」

あんなに我が儘で、矛盾している感情に対峙したのは初めてのことだった。

そして望み通り、陣痛は穏やかに、ゆっくりと時間をかけて強くなり、ニコはゆっくりゆっくり44時間44分もかけて出てきてくれた。私は結局、本当に強い陣痛を体感することはなかった。

出産当日のことはまだよく覚えている。陣痛が始まってはや40時間。一時は1分間隔にまで迫ったのに、体力が落ち、5分、6分、7分と伸びていった。

夕方の触診で先生が子宮口を見て「骨盤が小さいなあ」と言った。「帝王切開もありえるかも」。けれど、ニコは諦めずにじっくり下に降りてきた。午後8時半過ぎくらいだったか、「もうそこまで来てるから、バキュームと圧迫しましょう」と助産師さん。「えっ、いつですか?(夫、間に合うかな)」「次の陣痛が来たら行くよ!」「(うわあ、間に合わない)」。「機械は使うけど、あなたの力で産むんだからね」と念押しされた。

その数分後、痛みの波とともにいきみ、お腹を限界までぐにゃんと力強く圧迫され、太腿の付け根あたりからはウィーンと不吉な機械音がしている中で、助産師さんの声がした。「見て!下見て!生まれるよ!」私は無我夢中で叫んでいたと思う。ずるり、と赤ちゃんが出てきた感覚。からだがメリメリ音を立てている気がするけど、痛みはなかった。痛みを通り越して、痛さを感じなかった。体じゅうの内臓が出ていったんじゃないかと思うような妙な感覚だった。赤ちゃんが誕生した瞬間を目で見ることはできなかった。本当に一瞬だったから。子猫のような弱々しい泣き声がして、体を拭いて肌着を着せてもらった赤ちゃんが胸の上に乗せられ、私はよくわからないけれど泣いた。すぐに産婦人科の計らいで動画撮影が始まった。まともに話せなかった。

その後、ニコは新生児ベッドに寝かされ、なんだかいろんな計器を取り付けられていた。ニコの方を向いて見ていると、まだ何も見えていないニコもこちらを向いていたのがたまらなく愛しい。

しばらくして、夫からLINEが来た。もう生まれちゃったよ、と言うと、大泣きのスタンプ。職場を早めに出て飛んで帰って来た夫は分娩室に通され、助産師さんの指示で手を洗い、私の方を見た。途端に彼の目が潤む。私に「ありがとう」と言ってから、ニコの姿を目に留めて感激していた。休憩室の準備ができて移動し、私は2日ぶりにまともな食事をした。夫は連れてこられたニコを抱っこして離さない。「赤ちゃんの体温が下がるから」とニコが連れて行かれてしまうまで、抱っこして過ごした。

その夜は、個室を予約していなかったこともあり、夫は帰宅。私は大部屋のベッドで、他の赤ちゃんたちの泣き声を聞きながら、興奮でなかなか寝付けなかった。

産婦人科での入院生活は幸せそのものだった。夫は急遽個室に変更してもらって泊まり込みで一緒に過ごし、連日友人たちが駆けつけてくれた。産後に押しかけるのはマナー違反だという風潮があるけれど、私はたくさんの人がニコを抱っこしてくれる方が嬉しかった。生まれたことを祝福してくれる人は多い方がいい。

ニコは元気だった。ただ、予定より早く生まれたために2582gしかなく、からだも細かった。とくに手の甲がシワシワで、私たちの思い描く赤ちゃんのふっくらした肌とは似ても似つかない様子だったので、心配になって助産師さんにあれこれ尋ねたりもした。

母乳はなかなか出なかった。毎日ほぼゼロ。11月末の寒い病院の廊下を行ったり来たりしながら、授乳前後の体重測定。哺乳瓶は使うたびに洗って消毒。慣れない生活リズムで疲れてはいたけれど、まだ楽しむ余裕もあった。

産婦人科を退院して1週間後、夜中の授乳中に悪寒がするようになった。おかしいなと思う余裕もなく、ひたすら授乳、おむつ替え、授乳、おむつ替えを繰り返す生活。食事もままならない。ろくに眠ることもできない。ニコが泣くと、明日も仕事に行かなければならない夫が眠れないのではと気がかりだった。当時、夫は飲食店勤務で朝から晩まで仕事していた。にもかかわらず、「男性は赤ちゃんが泣いても起きない」と言われるのに我が家では夫の方が敏感なくらいだった。夫婦ふたりとも常に寝不足だった。だから、頼ることもできなくなってしまった。

ある日、昼前の授乳を終えてニコを抱きかかえながらソファで休んでいたら突然寒気がして、それがどんどん強くなって、体がガタガタと震え出し、歯がガチガチと鳴り、パニックになった。電気ブランケットを最高温度にしてくるまっても熱を感じられない。寒い。

思いつくのは産婦人科だった。朦朧としながら電話をかけ、ガチガチ震える口で震えが止まらないと伝える。とりあえず病院まで来るように言われ、タクシー会社に電話する。その後、迎えのチャイムが鳴るまで意識が飛んだ。

玄関先まで迎えに来てくれたドライバーさんに赤ちゃんを抱っこしてもらえないか聞くと、触れてはいけないルールなのだという。ニコを落とさないように慎重に抱っこして、パジャマのまま、ふらつく足で部屋を出て、玄関に鍵をかけ、エレベーターを降りてタクシーに乗る。ニコは空気を読んだように、めずらしくスヤスヤと眠り続けている。12月なのにタクシーの窓から日が強く差し、ニコの肌を痛めつけている気がして、ブランケットで陰をつくってしのいだ。

しばらくして産婦人科に到着。ニコは数日前まで過ごした新生児室へ。待合室のソファで熱を測ると41度。ベッドのある休憩室(出産後に家族で過ごした部屋!)に通され、先生が来て診察したところ産科由来の問題はないらしい。インフルエンザかも?と言われつつ、紹介状を書いてもらう。その間に夫の上司に電話をかけ、早退させてもらうようお願いする。

夫が到着してから近くの総合病院へ。そこで何本も採血をしたところ、からだのどこかで炎症が起きていてかなり高い数値が出ていた。造影剤を入れてCTだかMRIだかで血栓がないか調べて、緊急を要する事態ではないことだけがわかった。解熱剤の点滴をすると嘘のように熱が引いて37度くらいになった。でも、高熱が出た原因はわからなかった。その日は帰宅したものの、数日後、また全身が震え出し41度の高熱が出て今度は入院することになった。

ニコのことを誰かに頼るとしたら乳児院に預けるしかなかった。でも、生まれたばかりの赤ちゃんをよく知らないところに預けるのは嫌だった。病院に相談して、ニコはどこも悪くないけれど小児科を受診することにして母子同室で入院することになった。

入院中は点滴をしながら授乳、おむつ替えをして過ごす。沐浴の時には、点滴の針だけにしてテーピングしてもらった。大変だったけれど、幸いなことに三食ご飯付き、パジャマやシーツは汚れたら洗ってくれ、掃除も定期的にしてくれる。それだけでも随分とまともな生活だった。しかも、ニコの健康状態を医師に毎日見てもらえる。初めての育児で、何が正常で何が異常かさえわからない私にとっては願ったり叶ったりだった。

夫は仕事帰りに立ち寄り、何度か病院に泊まってくれた。でも、仕事でくたくたになった彼はいくらお国柄、育児慣れしているとはいえ、寝ずの番を代われるほど体力はない。高熱を出しながらの授乳に耐えられず、「もう無理」とこぼすと険悪なムードになったこともあった。でも、ニコの存在がお互いに背中を向けてしまいそうな私たちをなんとか繋ぎ止めていた。

熱は37度から39度を行ったり来たりして、時々解熱剤を入れてもらった。血液検査を何度も繰り返し、肺の検査、レントゲン、エコー。全身くまなく、これでもかというほど調べ尽くしたけれど、原因は見つからなかった。ただただ、高熱と低血圧が続くだけ。2週間入院して、退院時には「敗血症性ショック」と診断された。ムハマド・アリ氏の命を奪ったとされている症状。社会に出てから度重なる徹夜でもへこたれなかったことで過信していたけれど、産後の体のダメージは思った以上に大きかったのかもしれない。

こうして生まれてから1ヶ月をニコは産婦人科に総合病院と、ほとんどを病院で過ごすことになってしまった。ニューボーンフォトも予約していたけれど撮れなかった。ニコが生まれた頃の写真や動画はほとんどが病室のベッド。でも、なんとかクリスマスは自宅で迎えることができた。

あの日々から、もう少しで2年になる。生まれる前から私のことをよく理解してくれて、生まれたばかりのこの子に何度助けてもらったかな。ありがとうと思う反面、ニコがそうして黙って空気を読んで、ひとりで背追い込んでしまう子になりはしないかと心配でならない。ときには自分を優先することも覚えてくれるといいな。

出産を終え、今はニコが「生まれて良かった」と思ってくれることを願う日々。失う恐怖から解放される日は来ない。クリスチャンとして永遠の別れはないと信じてはいても、それでも今の私の一番の恐怖は夫とニコ、家族を失うこと。こうなることをわかっていたから、かつてはかけがえのないものを作りたくなかった。でも、今は恐怖の終わりを待つよりも、日に日に成長していくニコの姿を記憶に焼き付けておきたい。

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