カラヤンのショスタコーヴィチ

20世紀のクラシック音楽界を語る上で、絶対に外せない人に、ヘルベルト・フォン・カラヤンがいる。カラヤンは偉大な指揮者であり、演出家であり、音楽界の帝王、カリスマであった。彼の発する圧倒的なオーラの前に、誰も異議を唱えることができない程の巨人だった。

彼は生前に膨大な録音と映像が残した。驚異的なレパートリーの広さも彼の特徴だが、ショスタコーヴィチの交響曲のうち、録音を残したのはなぜか第10番だけだ。

カラヤンは、この曲をドイツ・グラモフォンに2度のスタジオ録音の他に、作曲家自身が客席で聴いたモスクワでの有名なライヴ録音があるが、個人的に所有しているのは、1981年にベルリンでデジタル録音されたCDである。

ムラヴィンスキーなどのソ連邦時代のショスタコ演奏をヘッドホンで聴くのはキツい。耳をつん裂くようなトランペット、甲高いスネアの連打、ギシギシ鳴る攻撃的な弦楽器など、苛烈無し音の羅列。剥き出しのショスタコだ。個人的に愛聴しているバルシャイがケルン放送響と録音したショスタコーヴィチ交響曲全集も、音色こそ西側のオーケストラらしさはあるが、方向性はこうしたソヴィエト路線を踏襲するものに思える。

カラヤンの音楽はムラヴィンスキーの対極にある。スーパーオーケストラのベルリン・フィルはこの録音でも最高レベルの演奏である。楽譜にある音を見事に音楽にしている。響きは分厚く、ウェットだ。相変わらずカラヤンの音楽のスケールの壮大さは格別で、極めて甘美だ。とても深淵だが深刻ではない。

例えば、第二楽章。ベルリンフィルのメンバーはこの演奏至難な楽曲を圧倒的なテクニックで大迫力で演奏している。しかも余裕すら感じさせるのだ。この演奏は、ムラヴィンスキーのように身を斬るような切迫感を感じさせない。まるでワールドカップのサッカー選手が華麗なテクニックで観客を魅了するようだ。

第四楽章。アレグロに入ると、木管やヴァイオリンの響きは希望の光が見えるようだ。ムラヴィンスキーの音楽にある諧謔性は感じない。カラヤンの音楽はとてもマッシブで肯定的なのだ。二人の偉大な指揮者が指揮する完璧な音楽が、ここまで違う響きとなって我々に迫り来るとは!これこそ、クラシック音楽の奥深さである。

冷戦真っ只中のこの時代、ショスタコーヴィチの音楽とソビエト連邦という国家は、切っても切り離せない関係にあって、彼の楽曲の一部は社会主義イデオロギーのプロパガンダとしての役割を強要された側面がある。作曲家は身の保身のため、時にこれに抵抗し、時に服従した。その苦悩、卑屈なほどの自虐的ユーモア、凶暴性が音となって我々に襲いかかる。

カラヤンのショスタコーヴィチを振っても、カラヤンであり続ける。ショスタコーヴィチの交響曲のうち、カラヤンらしさを体現するのに最も適した楽曲が第10番だったのかもしれない。この楽曲は、作曲家本人の言葉によれば、「人間的な感情や情熱」を描いた作品であって、洋の東西を問わないテーマであることや、ソ連国歌が好む革命思想などの表題性が比較的希薄な純音楽であることが、カラヤンの音楽性と見事に融和している。

この演奏の評価は、賛否両論あると思うし、自分もカラヤンの音楽が好きなわけではない。しかし、この演奏を批判できるほど、自分は音楽に対する深い理解も無ければ、確固たる信念や自信も持ち合わせていない。

20世紀が産んだ偉大な作曲家、指揮者の見事な音楽の魅力に、ただ跪くしかない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?