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パウロ神学の間違いから学ぶイエス・キリストの使命

いまの日本では、統一教会がキリスト教の異端だったことを知る人は少ないでしょう。
極右にも分類される政治活動、資金源確保としての霊感商法、自己破産する程の高額献金、清平の先祖解怨、どれをとってもキリスト教のイメージとは全く相容れないからです。

ところが純粋に神学のみに焦点を合わせると、統一原理は十分に議論する余地があります。
神が宇宙を創造された理由、神はなぜ人間の悪に干渉されないのか、性解放や同性愛がなぜ悪なのか、唯物史観を凌駕する歴史観と世界観、イエス・キリストが無原罪の神の子である理由… 既存の神学では決着が付かなかった問題を、シンプルに説明しているからです。

しかしこれまでキリスト教徒に最も拒絶されてきた内容は、「十字架によって救いは完成していない」という説明でした。

実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

ローマの信徒への手紙5章6-8

ファリサイ派のユダヤ人(ベニヤミン族)だった使徒パウロは、生涯を通じて自分のアイデンティティに苦しみました。
イエス・キリストはユダヤ人が待ち望んだメシアなのか、であればなぜ、異邦人宣教という命令を下されるのか、先祖たちが命懸けで信仰してきた律法には、もはや何の価値もないのか・・・

結論としてパウロは、十字架を「不信心な異邦人のための代理贖罪」と意義付けました。
「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された」という叙述は、人間の感情を揺さぶる力があります。
アメリカのヒーロー映画は殆どがこのテンプレートで制作されており、「友のために死ぬ」ことが究極の愛だと、誰もが疑わないのです。

統一原理では十字架を「ユダヤ人の不信仰がもたらした悲劇」と捉え、本来ならイエス・キリストは「ユダヤ人の王」として、生きて果たすべき使命があったと教えます。
これを裏付ける説教をしたのが、殉教する直前のステファノでした。

かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。

使徒言行録7章51-53

ユダヤ人にとって、イエス・キリストは絶対に殺してはいけないメシアでした。
(パウロが主張するように)はじめから不信心な異邦人のために命を差し出したのだとすれば、ステファノの義憤もペトロの悔い改めも無意味ということになります。

パウロはモーセの律法を「罪の自覚を生じさせる方便」のように捉えていますが、これは間違いです。

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

マタイによる福音書5章17-20

またパウロは人間を「キリストによってしか救われない、どうしようもない罪人」のように捉えましたが、これも間違っています。

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

マタイによる福音書5章43-48

生前のイエス・キリストは、律法と真摯に向き合えば「天の父の子」となれると教えたのです。
「あなたの罪を赦そう」と仰ったのは、その人が神に立ち返ろうとする真心を見出したからでした。

山上の垂訓で再解釈された律法が有効であるなら、(パウロ神学は間違っているのですから)十字架は救いの完成ではありません。
神の摂理は復活と聖霊の降誕により、「新しい選民の基台」を形成することにシフトしたのでした。
「私のために死んで」が正しかろうが間違っていようが、キリストの使命は再臨までお預けとなった訳です。
文顯進会長は、「キリスト教の功績は福音宣教ではなく、人間の自由と尊厳という価値観を、文明レベルで醸成したことだ」と語られます。

統一原理を学んだ食口からすれば、このような考察は朝飯前だったはずです。
ところが文鮮明師が聖和して11年が経過しても、自分たちの身に何が起きたのかを原理的に整理できていません。
食口がキリスト論を学び直すべき理由で書いたように、いま起きていることは全て統一原理で説明できるはずなのに。

キリスト教徒と同様、「こうあってほしい」という自分なりの執着が、真理への道を閉ざしているのです。
「キリストがわたしたちのために死んでくださった」という信仰がどれだけ美しくとも、神の摂理と無関係に生きればファンタジーでしかありません。
「真の父母様がわたしたちのために・・・」という信仰がどれだけ美しくとも、神の摂理と乖離してしまえば全く無意味なのです。


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