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統一教会の解散は神様の決定事項

私が8年前にはじめた別のブログで、繰り返し記事にした内容があります。
・選民が神様を離れたら、内的刷新に続いて外的粛清が起きる。
・文鮮明師聖和以降の情勢は、ユダヤ民族のバビロン捕囚とそっくりである。
・外的粛清が起きる前に、全ての罪を悔い改めなければならない。

この内容を更に探求したくて、FPAの有志で聖書研究をはじめました。
エルサレム陥落前夜を描くエレミヤ書とエゼキエル書を、改めて学び直したかったからです。
創世記からはじめて1年3ヶ月、エゼキエル書まで到達した翌日に安倍先生が殺害されました。

食口の多くは、聖書なんてしょせん「たしなみ」であって、原理講論や成約のみ言葉で十分だと思っているかもしれません。
しかし聖書歴史を学べば学ぶほど、「なぜ責任分担が果たされず摂理が延長するのか」という、深淵な問いのヒントが見えてきます。

エレミヤが伝えたかったことはシンプルです。
「バビロン捕囚(外的粛清)は神様の決定事項である。天使天軍がエルサレムを守護することはないから、無謀な徹底抗戦によって国を滅ぼしてはならない」と。

しかし同時に、捕囚の屈辱が永遠ではないことも強調しました。

主はこう言われる。バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。

エレミヤ書29章4-14

エレミヤの預言は理に適ったものでしたが、当座の屈辱を受け入れ難い民は、頑なに拒絶しました。
代わりに歓迎されたのが、「神は明日にも、(奇跡によって)バビロン軍を撃退して下さる!」と激励した預言者です(この人物は天罰で殺されます)。
王は最後までエレミヤに耳を傾けるべきか迷いましたが、最後は徹底抗戦を選びました。
結果我が子を目の前で殺され、エルサレムは破壊と略奪の限りを尽くされることになるのです。

聖書は冷酷に、実現しない希望は神から来たものではないと明言しています。
摂理の中心は神様であり、どれだけ希望が大きくそれを信じる人が多くても、多数決では決まらないからです。

8年前にエレミヤ書を読んだときは、「いまと何か似てるな」くらいの印象でした。
しかしいまは、かなりの確度をもって断言します。
家庭連合に、解散請求を退ける「奇跡の大逆転」はありません。
解散請求に抗えば抗うほど泥沼にハマるのは、この1年間教団が繰り出した悪手を振り返るだけで明白ではないでしょうか。

「あなたは分派だから、高みの見物で気楽でしょう」と、不快感を抱かれる食口もおられるかもしれません。
解散命令の屈辱は、サンクチュアリ教会もFPAも同じように味わうことでしょう。
文鮮明師の偉業が全てなかったことにされ、「あの統一教会の残党」と白眼視される点では同じだからです。

その同じ境遇に置かれた兄弟姉妹に呼び掛けたいのは、我々は悔い改めて蕩減期間を全うすべきということです。
蕩減期間はバビロン捕囚のように70年かもしれないし、もっと短いかもしれません。
しかし銃撃事件が起きる前に(魔法のように)戻ることは、絶対にないでしょう。

それでも我々は、歯を食い縛って生き延びなければなりません。
どんなに辛くとも、生き延びなければなりません。
身勝手で都合の良い魔法を起こすためではなく、これまでの罪を全て背負って、誰にも讒訴されない未来をつなぐためです。

世論と国会を動かして解散請求を実現したのが離教2世だということを、死ぬまで忘れないでほしい。
彼ら彼女らが突き付けたNo!は、あらゆる点で正しかったのです。
我々は偽物ではなく本物を、歴史に刻む義務があったのですから。



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