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彦根の歴史をたたえる芹川

彦根市を代表する大きな川、「芹川」。私にとっては、毎日の通学路で癒しを与えてくれる存在です。

でも考えてみると、いつも見ているのは芹川のほんの一部。この川はどこから来て、どこに向かっているんだろう?そんな素朴な疑問から、いつかは歩いてみたいと思っていた芹川沿いの道を探検してみることにしました!

スタート地点は、芹川が彦根市内に流れ込む場所。ちょうど多賀町と彦根市の境界にあたるこの周辺には、自動車用タイヤの工場や、大手スーパーの物流センターなどがあります。

芹川は、鈴鹿山脈の霊仙山を源流とする一級河川。犬上郡多賀町の山間部から彦根市街へと流れ、琵琶湖へ注ぎます。

もう少し歩くと川は東海道新幹線と交差します。私が通った時には、ちょうど東京行きののぞみ号が全速力で通過していきました。また、多賀町寄りには名神高速道路も通っており、彦根市の交通を支えるエリアともいえそうです。

旭森小学校を過ぎると、新潟から京都までを結ぶ滋賀県の大動脈・国道8号線に差しかかります。国道8号線の彦根市周辺は年間を通して渋滞が多い道路ですが、2025年の秋頃には米原バイパスの開通が予定されており、渋滞の緩和が期待されているそう。

しばらく歩くと踏切が見えてきました。地図を確認すると「ひこね芹川」という駅があったので行ってみることにしました。

ちょうど電車が走ってきました。近江鉄道100系電車です。
ちなみにこの車両は近江鉄道が西武鉄道から譲り受けて改造したもので、琵琶湖をイメージした水色に塗られています。近江鉄道は西武グループの企業ですが、傘下に入ったきっかけは創業者の堤康次郎氏が滋賀県愛荘町出身であったこと。ご子息が社長を務めたこともあったそうです。

「線路内に立ち入ってはいけません」という看板には味のある愛らしいイラストが添えられていました。
ここで近江鉄道にまつわる小話をひとつ。

現在は正式な略称がなく、地元の人々からは親しみを込めて「ガチャコン電車」と呼ばれている「近江鉄道」ですが、戦後しばらくは「近鉄」とも呼ばれていたそう。しかしながら、1944年に近畿日本鉄道が発足して以降は、ご存知のようにそちらが「近鉄」と呼ばれるようになり、近江鉄道を指すことは少なくなりました。

再び芹川沿いに戻り、しばらく歩くと街並みに「仏壇」の文字が目立ち始めます。

仏壇店が軒を連ねるこのエリアは、彦根城へ外敵が容易に近づけないようにするために曲がりくねった道をしており、「七回曲がらなければ目的地にたどり着けない」ことから「七曲がり」と名付けられています。

ここで仏壇産業が興ったのは江戸時代のこと。武器や防具を作っていた職人たちが、平和な時代の訪れとともに仏壇職人に転向したのが始まりです。湖東地区ではもとより仏教が盛んだった背景や、彦根藩主の庇護もあり仏壇製造業はこの地で大きく発展しました。


七曲がりを抜けて、再び芹川へ。

橋の上から見渡すと、川が琵琶湖に向かってまっすぐに伸びていることが分かります。かつてはこの辺りも上流と同じように曲がりくねり、松原内湖(現在は埋め立てられて住宅地や商業施設)に注いでいたそうですが、城下町を建設する際に井伊直継の命によって付け替えられました。

(彦根城博物館にて)

1603年に行われたこの付け替え工事は、堤防の建設による治水だけではなく、彦根城南部を外敵の侵入から守る防衛線をつくることも目的の一つでした。

芹川の旅もいよいよ大詰め。だんだんと琵琶湖が近づいてきます。

いよいよ琵琶湖に到着。ちょうど夕日が沈み始めていました。

今回、市境から芹川を下って知ったことは、芹川が「城下町」としての彦根の姿に大きな影響を与えていて、芹川もまた「城下町」化や近代の都市化から影響を受けているということでした。
これからも時代の変化に合わせて、この川やとりまく環境がどう変化していくのか、まだまだ目が離せません。

(写真・文 萱島海紀)