見出し画像

#12_『みんなが手話で話した島』

『みんなが手話で話した島』を読みました。「ナスビの学校」をつくっていくためのヒントがたくさん詰め込まれていました。

アメリカ・ボストンの南に位置する「マーサズ・ヴィンヤード島」では、20世紀の初めまで、遺伝性の聴覚障害のある人が多くみられました。そしてこの島では、耳が聞こえる・聞こえないにかかわりなく、誰もがごく普通に手話を使ってコミュニケーションをしていました。

「私もかつて、聾者の多さに首をかしげることがありました。けれども、あそこの住民が何ということもなく振る舞うので、いつしか私も気にかけなくなっていたのです。」(p.21)

「別にどうとも思っていませんでした。他の人とまったく同じでしたから。」「つまり、ここではみんなが手話で話したんです。」(p.22)

「あの人たちにハンディキャップなんてなかったんですよ。ただ、聾というだけでした」(p.28)

みんなが手話を使える世界では「耳が聞こえないこと」は障害になりません。反対に、みんなが手話を使えるわけではない世界では「耳が聞こえないこと」は障害になりえます。このことが教えてくれるのは、「障害」は社会的につくられるものであるということです。この発想を、もう少し拡張してみると、次のようにも言えそうです。

「苦手なこと」や「できないこと」は社会的につくられるものである。

たくさんの情報を中長期的に記憶することが苦手な子どもがいます。この子どもはきっと「たくさんの情報を中長期的に記憶することを要請・要求・期待されている社会」のなかで生きています。たとえば、教科書やノートを持ち込むことが許可されず、自分の「頭の中にある情報だけ」で解かなければならないテストがあり、そのテストによって順位がつけられ、評価される社会のなかで生きています。もしも、教科書やノートを自由に持ち込むことができる環境があったとしたならば、その子どもの「苦手」は弱くなったり、なくなったりするかもしれません。このように考えてみると、子どもたちの「苦手なこと」や「できないこと」をつくりだしているのは、学校や教師なのかもしれません。

聞こえないという事実が、共同体内である人物のステータスに何の影響もおよぼさなかったということなのである。(p.121)

子どもたちが直面している「苦手なこと」や「できないこと」は、子どもたちのアイデンティティ(自分がどんな人間であるのかということへの理解)に大きな影響を与えることがあります。さらには、その子どもたちに対する周りからの評価にも大きな影響を与えることがあります。しかし、子どもたちをとりまく環境によっては「苦手なこと」や「できないこと」が、子どもたち自身に何ら影響をおよぼすことがないという現実をつくりだすことができるかもしれないのです。

『みんなが手話で話した島』のなかで、私が最も衝撃を受けたのは、次の文章です。

「あそこのアーネスト・メイヒューの店にいったんですが、手話ができず、ずいぶんくやしい思いをしました……。自分が馬鹿みたいに思えるんです。他人が何か話をして、手話を使って、楽しそうな顔をしているときに、こちらときたら話が分からず、ただもう間が悪いだけ―本当にいやになっちゃいましたよ」(p.130)

今の私たちの社会では「耳が聞こえて手話ができない人」はマジョリティ側にいます。私自身も「耳が聞こえて手話ができない人」です。それで日常生活に困ることは、ほとんどと言っていいほどありません。しかし、マーサズ・ヴィンヤード島では「耳が聞こえて手話ができない人」がマイノリティ性を実感する場面が日常生活のなかにあったのです。「マジョリティとマイノリティの逆転現象」が起きる場面があったのです。

「ナスビの学校」は、子どもたちが直面している「苦手なこと」や「できないこと」の理由を、子どもたち自身ではなく、子どもたちをとりまく環境に求めていこうとします。

それは、甘やかしではありません。

子どもたちひとりひとりの「権利」を、「学習権」を保障するための実践です。

学習権とは、 読み書きの権利であり、 問い続け、深く考える権利であり、 想像し、創造する権利であり、 自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、 あらゆる教育の手だてを得る権利であり、 個人的・集団的力量を発達させる権利である。(ユネスコ「学習権宣言」)

「ナスビの学校」は、「ひとりひとりの学習権が守られる学校」です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?