#66_「研究紀要の読者」としての子どもたち
学校には「主題研究」なるものが存在します。
私の限られた経験にはなりますが、「主題研究」なるものは、あんまりよい受けとめられ方をしていないように感じます。たとえば……
「研究なんてしなくても、毎月、ちゃんと、お給料はもらえるんだぜ」
「研究なんて難しいこと言わずにさ、なんとか、この激動の日々を乗り切っていこうぜ」
「研究なんて、そういうのが好きなヤツに任せとけばいいんだよ」
「あのぉ、すみません。私は、ちょっと、あの、その、難しいことはわからないので、何をすればいいのか、はっきりしてもらえると助かります」
「んん?研修?いやいや、今の私たちに必要なのは、研修じゃなくて、明日の打ち合わせ!そんなこと、やってるヒマ、ないんだから!」
「研究主題、どうするの?なんか、よさげな主題、ありそうですかね?」
「とりあえず、アンケート、とりましょうか」
「あ、そろそろ、まとめの時期ですね。とりあえず、もう1回、アンケート、とりましょうか」
「本年度の成果かあ。まあ、この数値が上がったってことは、成果があったということで……」
「本年度の課題かあ。まあ、4月から誰がやるかはわからないけど、とりあえず、書いておこうか」
まあ、だいたい、こんな感じで受け止められていることが多いのではないかと感じます。
「今年1年、ちゃんと研究したかどうか」「研究の成果をしっかりとあげることができたか」なんて、学校で日々、格闘している先生たちにとっては、ほとんど関係ありません。研究したからって、お給料が上がるわけでもありません。
ここで考えたいことは、「どうして、主題研究は、こんなにも、つまらないのか?」という問いです。(私はこの問いを「主題研究の問い」に設定して、1年間かけて、みんなで研究することに意義があるとすら感じています。)
現時点での、私なりの答えは、「研究の宛先が不在だから」です。
研究は、人類のために、やるものです。
でも、これだと、ちょっとスケールが大きすぎます。
もうちょっと、サイズダウンして、パラフレーズしてみます。一口サイズで、すぐに食べられて、そんなにお腹にたまらない、コース料理の前菜くらいのサイズに。
研究は、目の前にいる子どもたちのために、やるものです。
「研究の宛先」は「目の前にいる子どもたち」なのです。
こんなふうに「研究の宛先」を設定すると、もはや「だるーい」「めんどーい」「わかんなーい」なんて、口が裂けても言えないわけです。体裁を整えるために、かたちだけのアンケートをとろうとしても、「いや、これ、ちょっと、やらせっぽくないか?いやらしくないか?」と自制するようになるわけです。
「研究の宛先」は「目の前にいる子どもたち」です。
それゆえ、「研究紀要の読み手」は「目の前にいる子どもたち」です。
だから、「研究紀要」は、子どもたちにわかる言葉で、子どもたちに伝わる言葉で、子どもたちに「ふーん、先生たちって、そんな研究してるわけねー」とわかってもらえる言葉で書くべきなのです。
ここまでの議論を、すっごく抽象的に、概念的に、端的に書くと、次のように言えます。
学校において、教師は、子どもたちに対して「権力者」となります。
「権力者」としての教師は、適切に「権力」を行使する必要があります。
子どもたちは「権力者」としての教師が、適切に「権力」を行使しているかどうかを、くまなく、こまめに監視する必要があります。そして、不適切な「権力」の行使が行われているときには、迷うことなく異議を申し立てなければなりません。
「研究の宛先」を「目の前の子どもたち」に設定するということは、「権力者」としての教師が、自らの権力を、子どもたちに対して、どのように行使しようとしているのかを、白日のもとにさらすことを意味します。
「先生たちってさ、こんな研究するって言ってたよね。なんだか、違くなーい?」「言ってることとやってること、矛盾してなーい?」と、子どもたちがちゃんと気づけるようにしておくことを意味します。
学校で、先生が行う研究の影響をいちばんに受けるのは、まぎれもなく、子どもたちです。その子どもたちを宛先に設定した研究こそ、学校でやるべき研究なのだと思うのです。
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