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#39_「答えはない」に惑わされない

「探究」という言葉が使われる文脈で、しばしば登場するフレーズがあります。それが「答えはない」というフレーズです。探究のガイダンスやオリエンテーションでも、しばしば「探究に答えはないんだ」ということが力説されることがあります。(いつもひねくれながら人の話を聞いていると、「いやいや、『探究に答えはない』という立派な答えを出しているじゃないの……」と思うのですが……。)

以前、総合的な学習の時間を担当しているとき、こんなことを書きました。

「答えはないよ」という大人を疑ってください。「答えはないよ」という言葉を,うのみにしてはいけません。「答えを出さなくてもいい」のなら,真剣に考える必要もありません。「答えを出さないと前に進めない」から,とりあえずでもいいと思って,答えを出しているのです。

「答えはある」と思ってとりかかってください。受検する上級学校を決めるということは,「とりあえずでも,自分のキャリアについて答えを出した」ということです。「期限までに,なんとか答えは出す」「答えを出した後で,また考える」というスタンスが必要です。

非常に長期のテーマというのは,いつ答えが出るかわからないし,答えと呼ばれる性質のものがそこにあるのかすらわからない。しかしそこで,「だから答えがなくてもいいんだ」と思ってしまうと,思考は止まってしまう。「答えはあるんだ」。はじめからそう決めてかからなければいけない。
(中略)私の考えでは,答えがないかもしれない問いに対して,必ず答えがあるかのように想定して,取り組まなくてはならない。そういう想定がうまく機能するためには,問いを中期あるいは短期のものへと転換し,設定し直す必要が出てくるのだ。(大澤真幸『思考術』河出書房新社,2013年、p.13)

「答えはないよ」というフレーズは、子どもたちを後押しするかもしれません。しかしその一方で、子どもたちの探究を「無責任」なものにする可能性もあります。子どもたちの探究をゆるませてしまう可能性もあります。他者が導き出した問いを「それもいいね、あれもいいね、なんでもいいね」と相対化してしまう可能性もあります。

「答えはない」に惑わされないことが大切だと思うのです。

「答えはあるんだ」

「答えを出すんだ」

「答えがあるから、答えを出すから、次の問いが生まれるんだ」

そう言う大人が、一定数、子どもたちのそばにいることが大切だと思うのです。

「ナスビの学校」では「探究に答えはあるよ」「探究の答えを出そうよ」と言う大人が、子どもたちの探究に伴走します。

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