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#56_日常に侵入する「脅威としての評価」

学校における日常生活には、たくさんの「脅威としての評価」を見出すことができます。「脅威としての評価」は、それ自体として、まずい。でも、日常的に見られる光景のなかに「脅威としての評価」が侵入していることに気づかないことは、さらに、まずい。「脅威としての評価」は、少しずつ、でも、確実に、子どもたちを学びから遠ざけてしまう。だからこそ、「脅威としての評価」の事例を、1つ1つ、丁寧に言葉にしていくことが大切だと思います。

たとえば、授業中によく見られる光景です。

教師が「はい、できた人、手を挙げて―」と言います。教師はそれによって学級全体の進捗状況を把握しようとしているのではないでしょうか。しかし、みんながみんな、手を挙げることができるわけではありません。「できた人」は「手を挙げる」ことができます。これを逆から読めば、「できていない人」は「手を挙げる」ことができません。手を挙げている子どもたちのなかで、手を挙げていない子どもがいると、目立ちます。視線を集めます。視線を感じます。「あ、わたしだけ?」「え、わたしって、おそい?」「そっか、わたし、できないんだな……」と感じることもあるでしょう。もしこここで「できていない子ども」のところに先生が駆け寄り、個別に指導を始めたとすれば、その指導の様子を「できている子どもたち=手を挙げることのできた子どもたち」までもが目にすることになります。目立ちます。視線を集めます。視線を感じます。

「はい、できた人、手を挙げて―」は「脅威としての評価」になる可能性があります。教師が「教室全体の進捗状況を確認したい」のであれば、教室内をがんばって歩きまわればいいのです。1人1人の情報を足で稼げばいいのです。タブレットの場合は、1人1人の情報を目で稼げばいいのです。

たとえば、授業中の指名。

教室にはみんなの前で発言することそれ自体に脅威を感じている子どもたちがいます。発表が回ってくることがわかっていれば、それだけが頭の中を支配して、心拍数が上がり、手に汗をかき、もう、授業どころではありません。「もうすぐ回ってくる発表を、いかに乗り切るか大作戦」で頭がいっぱいです。いよいよ、もうすぐ。つばを飲み込み、できるだけ小さな音で咳ばらいをし、いざ、発表。発表が終わったときには、自分が何を言ったのかすら、記憶にない。私自身にも、そんな経験がありました。

もしうまく発表できたのならいいのですが、うまくいかなかった場合、もしくは、言葉が出なかった場合、「発表させられる/指名される」という現象は、その子どもにとって「脅威としての評価」になりえます。「発表できなかった」「言葉が出なかった」「起立はしたけれど、何もできず、座っただけ」という評価が向けられます。

「そんな甘えたことを言っていたのでは、社会で生きていけないぞ」と言われるかもしれません。でも、それは「大人の論理」であり、「できる人の論理」です。子どもたちは、これから「大人になっていく存在」です。「できないことが認められ、承認され、そこからできるようになっていこうと励まされる存在」です。これから未来に向けて歩もうとする子どもたちに「脅威としての評価」は影を落としてしまいます。

私は、もう一度、自分の言葉を点検しようと思います。

「脅威としての評価」ではなく「希望としての評価」「贈与としての評価」ができる言葉の探索を続けようと思います。

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