「ナスビの学校」には,子どもたちにとって「ほどよい教師(good enough teacher)」でありつづけようとする教師がいます。
以前,卒業式に寄せて,こんなことを書きました。
「対象としての母親」と「環境としての母親」は,精神分析や幼児教育の研究者であるドナルド・ウィニコットが提唱した概念です。ウィニコットはこれらの概念をもとに「ほどよい母親(good enough mother)」を提唱します。母親が「完全なる環境」である場合,子どもは母親の存在に気づかないばかりか,自分を自立させていくという発想すら持てなくなります。何不自由なく支援してもらえることが当たり前となっているからです。一方で,母親が「完全なる対象」である場合,子どもにとっては深刻な状況になっていることが考えられます。いつでもどこでも母親の「目」を気にしなければならずに萎縮してしまっている状況などが考えられます。「完全なる環境」でも「完全なる対象」でも,なかなかよくない。そこで必要とされるのが「ほどよい母親(good enough mother)」であるということなのです。
「ナスビの学校」には,子どもたちにとって「ほどよい教師(good enouhg teacher)」でありつづけようとする教師がいます。教師がずっと環境にいたのでは,子どもたちが自立していくことが難しくなります。子どもたちが直面するであろう苦労や困難を,先回りして取り除くばかりでは,子どもたちが自立していくことが難しくなります。しかしながら,いつでもどこでも子どもたちが教師を「対象」として見なし,その「目」を気にしながら学校で過ごすこともまた避けなければなりません。普段は環境に溶け込み,たまに子どもたちの「対象」として浮かび上がってくる。そんな「ほどよい教師(good enough mother)」がいる学校を「ナスビの学校」と呼びます。