見出し画像

#7_「ほどよい教師(good enough teacher)」

「ナスビの学校」には,子どもたちにとって「ほどよい教師(good enough teacher)」でありつづけようとする教師がいます。

以前,卒業式に寄せて,こんなことを書きました。

本日は,ご卒業,おめでとうございます。
卒業式のタイトルを「一輪の花束」としました。
「子どもたちの“環境”であり続けたい」という気持ちを込めています。

「環境としての母親」と「対象としての母親」という考え方があります。私はこの考え方を知って,心から感動しました。そして,この感動を,みなさんと分かち合いたいと思いました。なお,ここでの「母親」という言葉は,「子どもたちの周りにいる大切な人たち」を意味しています。そのように読んでいただけると幸いです。

いつも決まった時間になるとご飯が出てきて,お風呂がわいていて,お風呂から上がったら,いつも決まったところに服がたたまれて置いてあって,何かを話しかけたら何かしらの返事が返ってきて……。

このとき,子どもの頭の中に,「母親」が立ち上がってくることは(ほとんどと言っていいほど)ありません。当たり前のように,いや,当たり前すぎて,わざわざ「母親がいてくれるから,私は決まった時間にご飯を食べて,お風呂に入って,服を着て,私が話しかけたことに応じてくれるんだ」なんてことは思いません。この状態を「環境としての母親」と呼びます。子どもにとって,「母親」は環境に溶け込み,環境の一部になっています。

しかし,環境に溶け込んでいたはずの「母親」が,子どもの頭の中に立ち上がってくることがあります。

ご飯が決まった時間に出てこずにお腹をすかせて,自分で何かを作って食べなければならないとき。お風呂に入ろうと思ったら,お風呂がわいていなくて,お風呂そうじもしていなかったから,自分でお風呂をそうじして,お風呂に入るとき。お風呂から上がって服を着ようとしたら,まだ洗濯物として干されたままになっていることに気づいて,あわてて服を取りに行くとき。何かを話しかけても,いいえ,話しかける相手がいないとき。

そんなとき,子どもの頭の中には「母親」が一気に立ち上がってきます。もう「母親」は環境に溶け込んでいるような存在ではありません。子どもが強く意識しなければならない「対象」になっています。この状態を「対象としての母親」と呼びます。

私は,この卒業式を,子どもたちが自分の頭の中に「母親」を立ち上げていく場にしたいと思いました。子どもたちひとりひとりの周りには,たくさんの,そして,いろんな「母親」があったのだろうと思います。そして,これからもそれは続いていくのだろうと思います。子どもたちひとりひとりの周りには,束のようにたくさんの,そして,いろんな「母親」があったのだろうと思います。

「一輪の花束」――。

環境に溶け込んでいる「母親」が,みずから名乗りを上げるのは,ちょっと気が引けて,ちょっと,いや,だいぶ大人げない感じがします。そうではなく,卒業式に向けた道のりのなかで,子どもたちひとりひとりが,「環境」の中にいるいろんな「母親」に気づき,「対象」として意識に立ち上げていくことができるといいなと思って,卒業式までの道のりをデザインしてきました。今日の卒業式が,子どもたちが自分の頭の中に「母親」を立ち上げていく場になるといいなと思っています。

私たち教師は,「子どもたちの成長の原因」になりたがります。「これをやったから,これを教えたから,今の成長した姿があるのだ」と思いたくなります。「環境としての母親/対象としての母親」という考え方は,「成長の原因になりたがる教師」をやさしく,そして,確実に,「環境」にとどまらせてくれます。これからも,子どもたちの「環境」であり続けたいと思います。

保護者のみなさんには,3年間,学校で行う様々な教育活動に対するご理解とご協力をいただきました。今日を無事に迎えられたこと,うれしく思っています。私は今,これを書きながら,「環境としての保護者のみなさん」を,「対象としての保護者のみなさん」として,頭の中に立ち上げています。「環境」から「対象」へと立ち上がってきたとき,心の中にじわじわと感じられるこの気持ちのことを「感謝」と呼びたいと思います。

3年間,本当にありがとうございました。
本日は,ご卒業,おめでとうございます。

「卒業のしおり」より

「対象としての母親」と「環境としての母親」は,精神分析や幼児教育の研究者であるドナルド・ウィニコットが提唱した概念です。ウィニコットはこれらの概念をもとに「ほどよい母親(good enough mother)」を提唱します。母親が「完全なる環境」である場合,子どもは母親の存在に気づかないばかりか,自分を自立させていくという発想すら持てなくなります。何不自由なく支援してもらえることが当たり前となっているからです。一方で,母親が「完全なる対象」である場合,子どもにとっては深刻な状況になっていることが考えられます。いつでもどこでも母親の「目」を気にしなければならずに萎縮してしまっている状況などが考えられます。「完全なる環境」でも「完全なる対象」でも,なかなかよくない。そこで必要とされるのが「ほどよい母親(good enough mother)」であるということなのです。

「ナスビの学校」には,子どもたちにとって「ほどよい教師(good enouhg teacher)」でありつづけようとする教師がいます。教師がずっと環境にいたのでは,子どもたちが自立していくことが難しくなります。子どもたちが直面するであろう苦労や困難を,先回りして取り除くばかりでは,子どもたちが自立していくことが難しくなります。しかしながら,いつでもどこでも子どもたちが教師を「対象」として見なし,その「目」を気にしながら学校で過ごすこともまた避けなければなりません。普段は環境に溶け込み,たまに子どもたちの「対象」として浮かび上がってくる。そんな「ほどよい教師(good enough mother)」がいる学校を「ナスビの学校」と呼びます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?