見出し画像

#2_「感動をともなった新しい知」との出会い

先日,卒業生が訪ねてきてくれました。4月から大学生になる青年とは,中学校時代をともに過ごしました。

中学校時代,2年間,その青年の社会科授業や総合的な学習の時間を担当しました。当時のことを思い出しながら,いろんなことを話しました。その中で,彼が言った言葉がとても印象的でした。

「感動したんです」と彼は言いました。

社会科授業のなかで「トゥールミンモデル」と呼ばれる論証モデルを教えています。

トゥールミンモデルを学ぶお題の1つに,「今日は部活がある。でも,熱がある。そんなとき,顧問の先生にどんなふうに伝えますか?」がありました。普通は「先生,熱が出ました。休みます」「おお,お大事にな」で済みます。ただ,この何気ないやりとりには「理由」が隠れています。私たちは普段,その「理由」を暗黙のうちに了解し合っています。だからこそ,スムースなコミュニケーションが可能になります。それはそれでいいのですが,本来,授業とは「非日常な営み」です。日常的にうまくいっているそのメカニズムを知り,学ぶ場です。上記のコミュニケーションで暗黙のうちに了解されているのは「熱がある状態で部活に参加すると,さらに体調が悪化してしまうおそれがあるから」や「他の部員にも病気を移してしまう可能性があるから」といった理由です。こうした「理由」をきちんと明らかにして,言葉にして,相手にわかってもらえるようにするということが,論証することの意義であり,コミュニケーションの基盤なのだという話でした。

彼はこのとき「理由づけをすることの大切さ」に「感動」したと言っていました。(私はそんな彼の発言に「感動」しました。)「理由づけって大事なんだな」と腹の底から実感したそうです。

ただし,私は最初から「感動」をねらっていたわけではありません。そもそも「感動」は計画することすらできないものであるはずです。「感動させてやるぜ計画」がバレたときほど虚しいものはないはずです。

それでも,彼は,「感動」したのです。

彼の「感動」は,5年前に生まれていました。

5年が経った今でも,その「感動」を覚えていました。

子どもたちは学校で様々なことを知ります。まさに新しいことを知りつつあるそのとき,子どもたちのなかに「感動」が生まれたのならば――「新しい知」に「感動」が付着していたのならば――それはきっと,その子どもにとっての「生きる方法」になっていくのではないでしょうか。理由づけをすることに感動した青年は,「どんな理由があるのかな?」「どんな理由でもって相手にわかってもらったらいいかな?」と探索するという「生きる方法」を携えて,新しいフィールドでも学び続けていくのではないかと思っています。

「ナスビの学校」では「感動」を味わうことができます。
「ナスビの学校」では「感動をともなった新しい知」と出会うことができます。「感動をともなった新しい知」は,その子どもにとっての「生きる方法」になります。

「計画することができない感動」を学校の中にいかに埋め込むのか。

この,一見矛盾するような問いに答えを出していくことが,「ナスビの学校」の哲学をつくっていくことになるのだろうと思います。そしてその哲学はきっと,子どもたちにとっての「学校に行く理由」や「学校で学ぶ理由」になっていくのだろうと思います。そんな「理由」の探索を続けてみようと思っています。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?