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届け変な想い。

クリープハイプとぼく

僕は中学生の時にYou Tubeで勝手に流れてきたウワノソラでクリープハイプを知った。それからずっと生粋のクリープハイパーだ(クリープハイパーなんてきっと言わない)。クリープがメジャーデビューしてからのCDはシングルもアルバムももれなく買っている気がする(「愛の点滅」のVer.違いはクソっ!と叫びながら諦めたけど)。「愛す」もちゃんと持ってる。生まれて初めて行ったライブもクリープハイプ、初めてラジオに投稿したのもSCHOOL OF LOCK の尾崎世界観のコーナーだった。

そんな生粋のクリープハイパーたる僕も最近は少しクリープから離れていた。理由は2つ。1つは社会人になって忙殺される日々で単純に音楽を聴く時間が少なくなったこと。クリープハイプの音楽は僕にとっては良くも悪くも通勤時に頭を空っぽにするためのBGMにしても、作業中に聞き流すBGMにしても存在感がありすぎるから。そうして、いつの間にか題名を調べもしないようなインストの曲や、海外のなんとなく耳にはしたことのある「意味の入ってこない」音楽を聴くようになっていた。そしてもう1つの理由は、「配信シングル」ってなんかよくわかんないからだ。デジタルネイティブとギリギリ言われるくらいの生まれで、IT系の会社に就職したくせに「配信シングル」がなんかわかんなくて不安なのだ。

そんなこんなでクリープハイプから若干の距離を置いていた僕だが、先月くらいからまためちゃくちゃ聞いている。忘れてた分だけ思い出したのだ。別に忘れてたわけじゃないけど。理由は2つ。1つは会社を辞めて、何かを考えるような時間が増えたこと。もう一つは、You Tubeでも配信されているシングル曲は聴けることに気づいたこと。もちろんもうすぐ発売されるニューアルバムの予約は済ませたが、You Tubeでタダで聴けてしまうから聞いている。言うなれば「CDは持ってるけどYou Tubeでは聴かない男」から「CDも持ってるけどYou Tubeでも毎日聴いてる男」になったのだ。

尾崎世界観とぼく

僕はクリープハイプが好きだ。でも、正直言って音楽的な素養はない。だから「このギターソロかっこいいな」とか「頭に残るメロディーだな」とか思うことはあっても、やっぱり一番意識が向くのは尾崎世界観が書く歌詞と尾崎世界観の声だ。別に主人公願望が強いわけでもないし、恋に溺れるような生活をしているわけでもないから、歌詞に自分が重なって涙を流したことはない。ただ、クリープハイプの歌詞の中に出てくる登場人物の寄り添ってくれるような中途半端な優しさが好きだ。クリープハイプといえば、世間への怒りだとか、攻撃的な歌詞とかという取り上げ方をされることが多いけど、こんなことを言うとそれこそ怒られるのかもしれないが尾崎世界観の自信の無さそうな優しさが好きだ。

僕がクリープの歌詞の中で一番好きなのは「僕は君の答えになりたいな」という曲の中に出てくる、「残りの数字は皿の上に並べたらラップにでもくるんで冷蔵庫の中へ」というものだ。

先に曲の軽い説明をすると、「僕は君の答えになりたいな」というタイトルにある通り、(多分)人生を「問題」にかけた歌詞や、「計算」を軸にした言葉遊びをしながら進んでいく曲である。詳しくは歌詞などを調べてもらいたい。そして曲のメインとも言えるサビではタイトル通り「僕は君の答えになりたいな ずっと考えてあげる」という言葉が出てくる。ほら優しい。答えになりたいと言いながらも「考えてあげる」のだ。正解なんてなくてそのくせに間違いはある人生を「考えてあげる」のだ。保証は無いけれど。

そして、僕が好きな部分の話だ。「僕」が「君」の「答え」になりたいのであれば、「君」に与えられる選択肢は少ない方がいいのだ。極論を言えば、一つしか選択肢がないのであれば、それが「答え」になるという場面もあるだろう。それに他の選択肢があることによってその「正解」に対する不安や後悔が生じる可能性もあるだろう。にもかかわらずに、この「僕」は「残りの数字」(つまりは他の「答え」候補)を事もあろうに、皿の上に並べてラップにでもくるんで冷蔵庫の中へ入れることを「君」に勧めるのだ。ただ、置いておくのではなくて、「ラップにくるんで冷蔵庫の中」という最高の保存環境での保存を提案するのだ。「答え」になりたいと言いながら、自分が答えになれなかった後の「君」のケアまで考えているのだ。こんなにも中途半端で自信のない受け取り手が困る愛おしい優しさがあるだろうか。

歌詞と文章

長々と歌詞の考察とも感想とも妄想とも取れるような何かを書いてきたけど、こうやって好き勝手に考えを巡らせることができるのも歌詞とか音楽のいいところだと思う。余白があるから自分を重ねられるし、聞き手それぞれにとっての「歌詞」が出来上がっていくのだと思う。単純に自分の考えや思っていることをなるべく漏らすことなく表現したいのであれば、歌詞よりも小説などの文章の方が形式として適していると思う。けれども、音と一緒に入ってくる「整えられた」言葉である歌詞からじゃないと受け取れないものもあるように思う。

前にNHKでやっていた番組でカズレーザーと対談した際にも、尾崎世界観は歌詞について「そんなに理解できるものなのかな」と言っていた。「この歌詞にすべてを込めましたというのはウソだと思う」とも。あくまでも歌詞は音と一緒に入ってくるものであると。素人の僕でも、色々なバンドの歌詞カードなどをみていると「AメロとBメロの歌詞の繋がりがわからないな」とか「きっとこんな体言止めは歌詞でしかみられないんだろうな」とか「それでもやっぱ音源を聴くとめちゃくちゃかっこいいな」と思うことがよくあるくらいだ。小説といういくらでも説明を尽くすことのできる形式での表現を経た尾崎世界観にはその実感というものがものすごくあるのだと思う。

同じ番組の中でカズレーザーがクリープハイプの曲の中でめちゃくちゃカッコいいと絶賛していた曲が「およそさん」だった。ものすごく短い曲で、今度出る新しいアルバムにも収録されないらしい(悲しい)曲だ。尾崎世界観が明言しているのをなにかで見た訳ではないが、「およそさん(=3)」というタイトルと歌詞から分かるようにおそらく円周率をテーマにした曲である。
https://www.youtube.com/watch?v=tt976Q14GdU

カズレーザーがこの曲のどこがめちゃくちゃカッコいいと言っていたかというと、サビのメロディーだ。この曲のサビには「3.14以降の向こうに転がり落ちていた」や「3.14以降の向こうに行こう飛行機で」という歌詞が出てくる。このリズムが小さい頃に誰もが円周率(3.14159265359...)を口ずさむ頃に無意識に刻んでいたリズムと同じだというのだ。誰もがリズムとして捉えていなかったがそこにリズムとして存在していたものを曲にしたことがカッコいいと。そして、この円周率には今日の朝食から、将来の姿、今までの恋愛、嬉しさ、悲しさまで理論上全ての情報が含まれていて(この辺りは僕には理解が追いつかなかったが)、それを曲にしていること自体がカッコ良くてズルいのだと。今回の本筋とは違うが、サビのメロディーが「円周率の歌」と同じことに気づく人は一定数いるとしてもそれを「カッコいい」とするカズレーザーの感性もズルいほどにかっこいいと思った。

きっと、この「およそさん」にも音でしか伝えられないものが顕著に現れているのだと思った。言葉遊びしてばっかりの尾崎世界観が音で遊んでいるのかなと思った。きっと日本で育って円周率を学習したことのある人は歌詞カードだけ渡されてもこのサビの部分は想像で歌えてしまうのだろうと思ったら、確かにものすごくカッコいいような気がしてきた。

伝えたいことと言葉にすること

いま話題にあげた「およそさん」だが、新しいアルバムにも収録されないとのことなので、現状として聴く方法は配信シングルをダウンロードするかYou Tubeに上がっているオフィシャルのMVを視聴するかの2つがあげられると思う。前述の通り、配信シングルに苦手意識のある僕はYou Tubeでこの曲を聴いている。そして今後も何か有形の音源としてリリースされない限りはYou Tube で聴き続けることになるだろう。

昨日もYou Tubeで「およそさん」を聴いていたが、カズレーザーの秀逸な考察とは対照的に、コメント欄を見るとなんだか悲しいものを見つけた。

『円周率の歌を作る上で「割り切れない」って単語は絶対に使いたくなったろうにあえて使わずに婉曲的にしたところがやっぱ好き』

このコメントには725もの「いいね」がついていた。馬鹿か!使いたくなる訳あるか!円周率の歌を作るってなったら「割り切れない」はまず一番に候補から外すだろ!尾崎世界観なめんな!お前M-1見ても、「なんか常識と違うこと言ってるから面白い」とか言うのか!前提を褒めんな!バーカバーカ!え、それとも皮肉?アンチなの?

悲しさと怒りで語彙力と例えの切れ味が消滅した文章になってしまった。行間を読むと言う表現があるが、小説やエッセイなどに比べて歌詞には行間が多く存在していると思う。なんなら行よりも行間の方が多い。恋愛の歌詞でも、そもそもその歌詞が切り取っている場面を恋愛の最初の段階と設定するのか最後の段階と設定するのか、この歌詞に出てくる「あなた」はまだそばにいるのか、もういないのか、そういった背景を聞き手がどう設定するのかで解釈が全く異なると思う。多くても500字にも満たないような表現においては、「何を書くか」と同様に「何を書かないか」によって伝えようとするものも多いと想像する。その作業のスペシャリストである尾崎世界観を前にして、「割り切れない」と言う表現を用いなかったことを褒めるのはあまりにも失礼なことのような気がした。

クリープハイプとファン

You Tubeのコメント欄に激怒するという、この世で一番無駄な時間の過ごし方をしてしまったが、きっとこのコメントを書いたファンもいいねをしたファンも、この文章を書いている僕も思っていることはそんなに変わらないんだと思う。

人には多かれ少なかれ、「自分の考えは間違っていないことを確認したい」だとか「間違っててもいいから誰かに共感をしてもらいたい」とかっていう動機づけが備わっているんだと思う。

そして、クリープハイプという存在はそういったみんなのともすると恥ずかしくなってしまうような願望を吐き出させてくれるのだ。クリープハイプのYou Tube のコメント欄やファンのSNSへの書き込みなどを見ると、クリープハイプへの思いや感想と同じように、自分の人生を内省するようなものが多い。これは他のバンドのファンのものと比べても顕著なように感じる。かくいう僕も高校生の頃にはラジオの投稿で誰にも言えないようなことを書き込んでいた。そして尾崎世界観本人とも電話をした(散々な結果になってしまい、人生をやり直せるチャンスがあるならもしかしたらあの瞬間のために使うかもと思うくらいだったけど)。

本人たちにそんなつもりがあるのかは知らないが、クリープハイプは「表現者」であると同時に今や「表現の場所」としての意味を獲得したように感じる。今、You Tube で公開されている「のぞクリープハイプ」のチャット欄でも日々誰かが何かを表現している。

強引になってしまうが、それも尾崎世界観が書く歌詞の優しさによるものなのではないかと思う。そしてその表現の豊かさ、キャッチーさによって、カズレーザーのような教養人の深読みにも耐えうるし、軽く流して聴いただけでも心に刺さると感じられるようなものになっているのではないかと思う。

おわりに

見切り発車で書き出して、いつの間にかこんなにも長くてまとまらない文章になってしまった。しかも書き言葉で書いていたらなんだか偉そうになった。尾崎さんというのもなんか違う気もするし、世界観さんはもっとぎこちないから尾崎世界観と書き続けてしまったがもちろん敬称略だ。すみません。カズレーザーも同様だ。すみません。

別に何か目的があって書き始めた訳ではなかったけど、書いたからにはきっと何か伝えたかったんだろうと思う。思うから考えてみたけど、きっと僕は尾崎世界観のことを、尾崎世界観への思いを届けたかったんだと思う。尾崎世界観の良さを伝えたいのなら、ホントはもっといい方法があるんだろうけど、箇条書きにしたり、ただただ音源を聴いてもらったり。それでも僕はきっとこうして伝えたかったんだろうと思う。

これからも尾崎世界観やクリープハイプをずっと好きでいるのか、もしかしたら忘れたり思い出したりを繰り返すのかはわからないけど、今は彼らのことが好きでたまらない。こんな中途半端な愛の表現はファン失格なのかな。

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