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今夜も召し上がれ 第2夜

豆腐なし麻婆豆腐

 辛いものが苦手だ。
 昔からそうだった。辛いものも苦いものも熱いものも炭酸も、口のなかに通常起こらない刺激をもたらすものが食べられない。硬いものは食べるが。
 と言いながらも、俺は昔から、母が作る麻婆豆腐が好きだ。
 近所のスーパーで30円のモヤシを冷蔵庫から取り出し、ボウルなんて気の利いたものは持っていないから茶碗を兼ねたどんぶりで洗う。変色した部分を捨てて、ある程度の長さになるように雑に掴んで折りながら、ひと口しかないコンロを見る。
 小さいフライパンのなかに目分量でいれた豚コマが、実に魅力的な香りを立てる頃合い。大雑把にモヤシの水を切って、シンクの下の収納から麻婆豆腐のもとを取り出す。
 オレンジ色の箱の、麻婆豆腐のもと、甘口。
 幼い頃から慣れ親しんだ味だ。保育園に入るころから味覚が進化していないと言ったらそれまでだが。
 母がそうやっていたように、まずフライパンのなかに濃いオレンジ色の液体と、例によって例の如く出てこないひき肉をあける。それから、そのなかに水を入れて、がんこなひき肉が出てくるようにえいやっとあける。なかなか出てこないひき肉を指で押したりなんだりしていたら、両手がベッタベタになるまでが一連の動作なのは俺だけだろうか。
 ……今日のところは、こんなもんで勘弁してやろう。
 焼きめの付いた豚コマが、沸騰する水に揺られてくつくつとリズムを取り始める。
 そこにモヤシを一袋ぜんぶ突っ込んでやるのだ。
「ん~、いい匂いだな」
 麻婆豆腐ならぬ、麻婆豚モヤシ。
 幼い俺があまりにも「麻婆豆腐のモヤシがおいしい!」と言いながらモヤシばっかり食べたためだろう、いつのころからか食卓にのぼるようになったメニューだ。
「……モヤシになかなか火が通らねえ」
 モヤシはシャキシャキと歯ごたえがあるよりも、くたくたに火が通り、透明になったやつが好みだ。やはり蓋をして熱が逃げないようにしなければ、そこまで火を通すのは難しいかもしれない。
「肉はあらかじめ焼いてあるから、食えるには食えるんだけど……」
 シンク下の収納スペースを覗き、家から持ってきたなんかいいお鍋に目を留める。こいつはすぐにお湯が沸くので便利だぞ、と持たせてもらったのだが、今のところそうめんをゆでる以外の仕事にありつけたことのない鍋だ。
「そーだ」
 狭いキッチンで料理ができるように、鍋も小さいものを持ってきたのだ。単に大家族の我が家では小さくて浅い鍋の出番がなかっただけでもあるが、コンロにちょうどいい鍋とコンロにちょうどいいフライパンなら、大体同じくらいの大きさだろう。
「こいつの蓋乗せちまえ」
 我ながらナイスアイディアと言いたくなるくらい、大きさがぴったりである。これがガラスの蓋だったり強化プラスチックの蓋だったりすればまだためらいもあっただろうが、重厚な作りの金属製の蓋だ。のっしりとふたの役割を果たしている。
「小金ができるまで、フライパンの蓋は買わなくていいな」
 モヤシを煮る、というわずかな暇の間に、冷蔵庫をのぞき込む。
「なんか食わなきゃいけねえもん、あったかな」
 フライパンの蓋もそうだが、ゴミ箱さえないこの城で腐敗した生ごみが出るのは避けたい。というか、ゴミ袋がなくてコンビニの袋に生ごみを入れて冷凍庫に封印している状況をいい加減どうにかしなくては。どこに売ってるんだゴミ袋。
「ネギ……と、トマトか」
 買ったまま袋ごと冷蔵庫に突っ込んだ長ネギとトマトを取り出し、足で冷蔵庫を閉める。
 いまいち野菜類の寿命を把握していないが、早く食べるに越したことはないだろう。どっちも近所の八百屋の見切り品だったし。
「麻婆豚モヤシトマト丼……」
 語呂はおいしそうではある。おいしそうではあるが、この城でもしも絶望的にまずいものを作ってしまった場合対処ができなくなるのは目に見えていたから、トマトは別で食べることにした。まだそんなに甘くないかもしれないが、まあいいだろう。
「モヤシも煮えてきたな」
 長ネギはキッチンバサミでがしがし小口切りにして、フライパンのなかに投下する。長ネギと中華は合う。
 長ネギ1本を贅沢に全部入れ、軽く混ぜてから火を止める。

 炊いたご飯をよそっておいたどんぶりに、フライパンの中身の半分くらいを盛り付ける。
 百均で見つけた大きめの木のスプーンを使って盛るし、それで食べる。ついでに言えば、ご飯もこれで盛った。
 麻婆豆腐のもとは2から3人前で、1食に出来ないこともないがちょっともったいないのである。ご飯をもりもり食べる生態をした人間だと自覚もしているし。
 なにより、とっておきのアレンジが控えている。
 フライパンの中身をなるべく広げてコンロに戻し、食べ終わるまで粗熱を取る。目の前に置いておくとうっかり食べかねないし、例によって例の如くこの城には鍋敷きがない。買ったばかりのテーブルを傷めるのは嫌である。
「本当はごま油があると、もっといいんだけどな」
 白いお皿に小ぶりなトマトを載せ、本日の夕食の完成だ。大盛りのどんぶりとフランス料理並みの余白を備えたトマトという、見た目のアンバランスはまあいいことにしよう。
 冷たい麦茶を注いだカップを、熱々のどんぶりの隣に装備する。猫舌ではあるが、モヤシ料理は出来立ての方がおいしい。
「よし、いただきます」
 とっておきのアレンジの話は、また別の夜に。

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