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今夜も召し上がれ 第16夜

第16夜 年越せそうめん

「俺、毎回推しの誕生日周辺忙しい気がする」
 大学の授業で忙殺されていたある暑い日のことである。
 110円の缶コーヒー片手に、アラームをセットした休憩時間だ。机の上に広がっている資料や素材のメモはなるべく視界に入れないようにしながらの談笑。
 忙しいのは俺と変わらないはずなのに、磨かれてパーツが乗った同級生の爪に目が行く。俺も爪を、あと髪も切らなくては。
 その手で差し出されたプリングルスをつまみ、代わりに自販機でキンキンに冷やされたクッキーを差し出す。
「そんなことないと思うけど」
「そんなことあるんだよ、それが。ゴールデンウィークのバイト、信じられないシフト組まれたし、そのあとは単位かけたプレゼンの授業。6月は俺、実家帰るためにあっちこっち調整しなきゃだったし、それが片付いたら今度はこれだぜ。寝る暇もありゃしねえや」
 日頃、わざわざ誰かに言うほどでもないけれど不満ではあることの後味と酸味のほとんどないコーヒーを流し込み、缶の上にチュッパチャプスのプリン味を戻す。
 それを待ってから、同級生は言った。
「それは『推しの誕生日周辺が忙しい』んじゃなくて、『お前はいつでも忙しい』って言うんだ」

 目が覚めた。
 どうやら、夢というやつを見ていたらしい。
「はー……」
 俺は普段、ほとんど夢を見ない。見ても覚えていないし、覚えていればほぼ例外なく悪夢だ。これはどうやら、本格的に疲れているという証拠らしい。 
 なぜか、足の裏に嫌な汗をかいていた。
 ただでさえ、最近時折、脱いだ服から身に覚えのないにおいがするというのに、全く嫌になる。
 時刻は午後の8時過ぎ、今日は予定がないが、昨日、そして明日から3日は日が変わるまで8時間の労働が約束された身だ。今日ぐらいゆっくり寝たいと思ってはいたが、流石に寝すぎだろう。
 雑にシャワーを浴びて、最後の1枚のバスタオルで雑に体を拭く。そのまま、敷きっぱなしの布団にころんと転がり、濡れた髪の下にタオルだけ挟んでやった。
 アルバイトを終えてからの徹夜と、予定のない日の20時間以上の睡眠を繰り返す生き物になりつつある。それが良くないことだとはわかっているのだが、精神が参ったときの眠り方を抜け出せずにいる。
 眠い。
 また寝そうだ。

 うとうとと目を閉じかけて、ふと気づいた。
 腹、減ったな……。
 それもそのはずである。
 俺が最後に取った食事らしい食事は昨日のアルバイト前に食べた、セブンイレブンのから揚げ棒であり、それはすなわち俺が28時間くらい何も食べていないということなのだから。
 身体を起こし、布団の上にあぐらをかく。
 だがしかし、あんまり元気がない。そりゃあそうだ。
 とりあえず、いつから布団の上にあるのか分からない水のペットボトルを開けて、エアコンで乾燥したのどを潤す。
 それでも消えない空腹感は、多少の抵抗では収まるつもりがないことがよくわかる。
 食べなきゃダメかあ……。

 この間、通りがかった金物屋の年末に乗じた叩き売りで手に入れたゆきひらを、レンジフードのフックから取る。軽くて小さくて300円だ。
 俺はやたらいい両手鍋を持っているのだが、いい鍋だけに重くて扱いづらい。だから、ちょいとそうめんでも煮ようかしらというときや、カフェオレの粉を溶かすお湯を沸かそうかしら、というときにはいささかいい鍋が過ぎるのだ。
 ひと口しかないコンロのとなりに、封を開けたまま放置していた500gのそうめんから、最後の一束を取り出す。

 フライパンよりもひと回り小さいこの鍋に合う蓋はまだない。
 ゆきひらの中の水道水が、湯に変わっていく様を見ている。
 こうして、気が向いたときに料理の日記をつけている俺が言うのもなんだが、俺は正直、食事をするのがあまり好きではない。
 俺は、いつの頃からか、どうしてか、食べ物の見た目がどうにも気持ちの悪いものに思えて仕方ない。
 白米だの、麺類だの、獣の肉だの、魚だの、果実だの、野菜だの。
 この世に出回る口に入るものはみな、めいめいそれぞれ気色の悪い造形をしている。
 それでも、食べれば美味しいのだから、人間というものは本当にどうしようもない生き物だ。

 完全に沸騰した湯の中に、一束のそうめんを放る。
 一気に温度の下がった湯の中で、そうめんは曲線に変わって、対流の中で意思がないかのように踊り始める。
 安いそうめん。沸騰する鍋のなか、1分30秒。
 これもまた叩き売られていた、取っ手付きのざるに鍋の中身をすべて開ける。
 ゆきひらにはどんぶり一杯の水道水を入れてコンロへ、ざるの中身は指先の凍てつきそうな流水で洗い流して絞める。
 これをこのまま、めんつゆでちゅるんとやってもいいのだが、今この足田には温かいものを食わせてやりたい。
 そうめんは一足先に、食卓と作業台と物置を兼業する場所に置いておく。

 コンロにまた火をつけて、そこへ、この間ついに買った、冷凍のひき肉をぱらぱら入れる。これまた冷凍のほうれん草を入れて、沸くまで加熱だ。
 仕上げに入れることにすると忘れそうだし、もうワカメも入れちゃえ。
 沸くのを待つ間に、残り1個の卵を割って、ざっくり溶きほぐしておく。
 本日の味付けは、うどんスープだ。
 ちょっと前に、普段行かないスーパーに立ち寄ったとき、なぜか練り物やがんもどきと一緒に冷蔵されていた、ヒガシマルのうどんスープに手を出してはみたものの、使い道がよく分からないまま冷蔵庫の上に置きっぱなしにしていたのである。
 具をしつこく冷ましてから、ひと口味見だ。
「……この味、どっかで………」
 昔、どこかで食べた鴨南蛮そばに少し似ている、気がしなくもない。
 この味の濃さなら、ひと袋入れて大丈夫そうだな。
 海老天の上下に正解はあるのだろうか。
 うどんスープが全て溶けたゆきひらのなかをぐるぐるかき混ぜて、小学生のプール開きの洗濯機のようにしたら、火を止めて溶き卵だ。

 湯気と共に、加熱された動物性たんぱく質の油脂分にしか出せない香りが立ち上る。
 ああまったく、なんでこんなにいい匂いをしているんだ。

 フライパンと兼業のやたらいい鍋の蓋をかぶせて卵をふわふわに仕上げている間に、ざるにあげていたそうめんを、どんぶりのなかにスパーンと盛り付ける。
 それから、その上にコンロからおろした汁をかけてやるのだ。
 具が麺の上に来るように、温かいつゆがいきわたるように。

 空になったゆきひらをすすいで、スポンジでワシャワシャやって、泡を洗い流せば、もうレンジフードに引っ掛けるだけだ。
 ちょっとばかり、同じ肉体のスペックを持つ人間のなかでは物を持つのが苦手な俺には、使いやすいことこの上ない。

「よーしできたできた……そうめんは楽だし美味いし、日持ちするから偉いもんだぜ。おかげさまでなんとか年が越せそうめん、ってな……」
 ふあ、と大きなあくびをしながら、どんぶりの前に腰をおろす。
「あー、食ったらはよ寝よ……いただきまーす」

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