サイダーの瓶

 電話が切れた。
 受話器を置くと、少しだけ度数の残ったカードが戻って来た。それを取ってしまうもの億劫で、そのまま視線を外に投げた。
 ひどく疲れた。
 電話ボックスの中は少し暗くて、外を照り付ける日差しはなんだか映画のようにうさんくさい代物だ。
 外は行き交う人もいるのに、世界中で私一人だけみたいだ。

 ぼーっと眺めていた往来に、学校上がりなのか、男の子が一人、自転車に乗ってやってきた。自転車に乗っていてもわかる、何かスポーツをやっていそうな体格の子だ。
 ちょっと目を引くような、大きな黒い目が二つと、あみだに被った帽子からはみ出すくせ毛の、日に焼けた、いわゆる高校生らしい姿をしていた。着ているのが近所の高校の制服というのもあるが、中学生のような幼さもなく大人のつまらない安定もない。

 面白い子だと思った。

 おそらくあの子は、名前も知らないが、制服からして私の後輩だ。
 私の一つ下の学年から始まった、どこかの有名デザイナーの作った制服は日本人の高校生が着ると大抵かなりやぼったい印象を与える。私の学年までだって、かなりやぼったいセーラー服に学ランだったが、ぽっちゃりしたパンダみたいな体格や、思春期に多いアスパラガスみたいな体格に欧州のデザイナーズ制服が似合うはずがない。通りを行くスクールバッグにも何人かそういうのがいた。
 あの男の子はどうも、制服のいやに洗練された感じをうまく損なって、その健康的な寸胴で田舎臭くまとめることに成功したらしい。足元は履きつぶしかけたスニーカー、背中は日に焼けた黒のリュックサックだ。
 少なくとも私は、彼のそんな雰囲気が気に入った。

 彼は私のいる電話ボックスの道を挟んで向かい、小さな簡易郵便局に自転車を停めた。
 古い自動ドアにちょっとまごついてから、中に入っていった。
 どうやら切手を見ているらしい。壁に貼られた見本をよくよく吟味する横顔と、黒猫の耳がついたがま口を、しきりにぱちん、ぱちんとやっているのが窓越しに見えた。
 高校生というと十六か十七か、もしくは十八歳で、黒猫ちゃんのがま口とは、予想以上に面白い子だ。
 よく横顔を見てみると、彼に髪の長いかつらをかぶせて女装させると、存外見映えのいいような気がしてきた。言い換えの悪口ではなく肉付きのいい頬はまるで少女のようにさえ見えた。
 彼は切手を買ったようだ。
 1シートで10枚の、季節ごとに色々なデザインのあるやつだ。
 昔は、出す相手もないのに眺めたっけな、発行切手一覧。

 意中の子と文通でもするような古風な趣味の持ち主なのか、それともどこか遠くにでも住む親類のおじいさんか何かの手紙を返す、律儀な性格なんだろうか。
 郵便局から出てきた彼の顔に、ふわっと笑みが浮かんだ。
 ああ、これは前者だな、と思った。
 彼はだれか、特別の人と手紙をやったり取ったりしているのだ。そうでなければ、あんな風に笑いはしない。
 誰かに恋をする人間はふとした時の顔つきが、表情が違うものだ、と何かの本に書いてあった。そして、よく見ればそれがどんな類の代物なのか分かるという。さすがに私はそこまで詳しくは分からない。だが、恋をする人間のふと漏らす笑みを、私はよく知っていた。
 知ってしまっていた。

 少年は切手を大事にしまって、自転車のスタンドを上げた。
 自転車に乗って走り出すかと思ったら、押しながらすぐ隣の駄菓子屋に向かった。
 あの店は私が高校生の頃から古い店だった。
 丸まった猫のような小柄な店主がちょこん、といて、みんながおばあ、と呼んでいたっけ。
 幼稚園児でも届く、低い平台に並べられた駄菓子を先ほどの切手と同じように吟味しながらゆっくり店を二周して、それからやっとレジに向かう。博物館やマニアには垂涎物にちがいない、なんのためにあるのかよくわからない大きなレバーがついたレジスターは、今もそのままなのだろうか。
 それから彼は、店の前にずっとあるガラス瓶のサイダーの自販機の前に立った。私が通っていた頃よりは幾分さびて古ぼけた自販機にちゃりん、と小銭を落としてサイダーを買い、自転車を停めた隣のベンチで栓を抜いた。

 しゅぽん、と気持ちのいい音が聞こえた気がした。

 あれは自販機ががこん、と落っことすがよく冷えているので勢いよく栓を抜いても案外大丈夫なもので、特別の注意を払わなくてもポンと開けて飲めるのだ。
 夕陽になりゆく太陽、高校の制服、自転車。スプライトのホーロー看板、サイダーの瓶。
 弱い炭酸と甘ったるい味を思い出しながら、彼のゆっくりした咀嚼をしばらく眺めていた。
 なんだか可笑しくなってきた。
 あの男の子を見つける前の、疲れのたまった気分がいつの間にか気にならないほど小さく萎んでいるのに気が付いた。
 彼が何をしたわけでも、私が何をしたわけでもないのに、ぬるいサイダーの泡がみんなこぼれて透明なところだけ残るように溶けていった。
 そう気づいたら、急におなかが減って来た。
 久しぶりにあの店に行こうかな、サイダーも買って。
 少しだけ度数の残ったカードをパスケースに突っ込んで、電話ボックスから出た。

 電話ボックスの外には、どこにでもあるようなまぶしいほどの真昼が広がっている。

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