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今夜も召し上がれ 醬油ラー虚無

第19夜 醬油ラー虚無

 子供の頃、ラーメンと言えば出前だった。
 今だって大人なのは縦寸ぐらいのものであるが、ともかくも俺の知っているラーメンは、運転の荒い大将が玄関の引き戸をガラガラガラと開けて、はいどぉもね、と持ってくるものだった。
 父親の分、祖父の分、曾祖母の分、俺の分……と、大将と同じぐらい貫禄のある木のおかもちから丼が取り出されていく。細い縮れ麺の、透明なスープのなかで小口切りの長ネギが踊り、業務用ラップが二重に掛けられた、醤油ラーメンでビンゴゲームをしたら真っ先にあがれそうな、捻りも衒いもないラーメンだ。
 そのラーメンがあまりにもしっくり来ているものだから、俺は未だに、世間がイメージするラーメンの図に違和感を感じる羽目になっている。
 煮玉子だ。
 記号のように描かれるラーメンには、煮玉子とか味玉とか呼ばれる、いかにもわたくしは美味しゅうござんすと言いたげなあの色をしたゆで卵が、ちょこんと乗っていることが多い。恐らくは、実際に乗っていることが多いのだろう。
 あれの違和感に気付くまでだいぶかかったと思う。
 高校生の頃、期末考査で午前放課の日に、高校の近くのしなびたショッピングセンターで食べた醤油ラーメンで、この違和感は憧れに変わる。
 縮れた平麺に、ワシャワシャと乗せられた白髪ネギ、そしてなにより、無造作に乗せられた、二つ割りの煮玉子。
 後に古典で学年1位を記録し、オール1位を狙っていた優等生から嫌な目で見られるきっかけとなった秋の日の午後だ。俺の違和感は、いわば憧れへと変わった。
 ほんの表面だけが色づいた白身、スープを簡単には濁らせない固まり加減の黄身に、染み通った、ラーメンのものとはまた違う醤油味。
 学校が早く終わる日を見計らってこのラーメン屋に通っていた俺が白内障のエロ爺いに捕まり、どういうわけか全身を撫で回されてラーメンどころではなかった話もあったりするが、まあそれは別の機会に。

 高校を卒業し、上京してそのラーメン屋に食べに行くこともなくなり、自由に使える冷蔵庫と余暇を手に入れた今。
 念願の自家製煮玉子を作ってみたわけである。
 卵4つの頭をぺんぺこ叩き、冷えた水道水から沸騰させて茹でること6分。
 本当は半熟たまごよりの茹で上がりにしたかったのだが、俺の沸騰判定が卵の思うところとは違ったらしい。見事な固茹で卵のでき上がりだ。
 出勤前の軽食にひとつもそもそ食べながら、めんつゆと水を大体1:2なんじゃねえかなあという比率でゆきひらに注ぎ、ひと煮立ちさせる。
 コーヒーのおまけでもらったプラスチックのタンブラーに卵を入れて、粗熱を取っためんつゆを注いだら、あとは労働している間に美味しゅうござんすという澄まし顔になるという寸法だ。
 下手に近くで見ていたら、漬かり切る前に食べ尽くしそうだなあというリスクマネジメントであるともいえる。

 というわけで、バイトを終え、立ち仕事で重い足で半分スキップしながら城に帰ってきた俺である。
 冷蔵庫で醤油ラーメンのスープと、5枚入りのチャーシューと、そして煮玉子が待っている。
 すぐにシャワーを浴びて、湯上がりさっぱりるんるん気分で猫の額よりも狭い台所に向かった。茶碗にしているこの丼は、本来ラーメンを盛り付けるように生を受けたものである。インスタントの醤油ラーメンのスープを入れて、チャーシューを味見などしながらゆきひらに湯を沸かす。
 だが、ここで忘れてはいけないことがひとつある。
 今日の俺は3連勤の3勤目、しかも今は真夜中。
「麺がねえーっ!!」
 乾麺の中華麺はこの間、めんつゆとごま油で食べたことをすっかり忘れていた。
 退勤直後ならいざしらず、もうスーパーは閉まってしまった。シンク下の兵糧倉にはまとめ買いしたパスタが群生しているものの、それは別の料理である。
「ぬ゛ぁあん……」
 ここまでやってまた明日ってのも生殺しがすぎるのだ。煮玉子しょっぱくなっちゃう。

 冷蔵庫を覗き込み、なんとか醤油ラーメンの体裁として取り繕えそうなものを探す。
「そもそも大したもんが入ってねえよ……」
 消費期限を切らしてゴミの日が来るのを待っている挽き肉ひとかけ、麦茶・牛乳・コーヒー牛乳・醤油・エトセトラエトセトラ、液体の類ばかり。
「あ゛あ〜……」
 うめきながらチルド室を開ける。
「あ」
 そこに入っていたもやしの、消費期限はついさっき過ぎ去りし昨日だ。
 なんだってこんなところに入っているのか知らないが、加熱すればまだいけるってことにしてもいいだろう。
 カロリーの釣り合いを考えると霞みたいなことになるが、ともかく俺は煮卵を乗っけて醬油ラーメンのスープをぶっかけたなにかしらをもりもり食べることを優先にした。

 ゆきひらでもやしをゆがき、もやし香の移ったお湯でラーメンスープを希釈する。この辺はもう適当である。
 四捨五入すると虚無がスープに浸かっているどんぶりを、食卓にしているローテーブルに置いたら、チャーシューをぺいぺいぺい、と乗せて、そうしたらお待ちかねの煮卵だ。
 包丁のないこの城で、綺麗に卵をふたつ割りにしたいのだが、あいにくと都合のいい糸もないので丸のままである。
 こういうところが俺の俺たるところであるような気がする。

「さてさて……」
 めんつゆで色の変わった白身に、室内灯がきらきらと光る。
 俺は少しずつこうして、憧れだったものを飲み込んでいくんだな。

 いつもは麦茶を入れるマグカップに冷たい水を注いで、ローテーブルの前に腰をおろす。
「いただきます」

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