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HSPを克服した話~本編~

今朝、ツイッターで「HSPと発達障害に大きな違いはないことが調査により明らかになった」的なツイートを見たので下の通り引用させてもらった。

今でこそほとんど誰も信じてくれないが、私は自分をHSPだと思っている。「HSPは繊細でか弱い」みたいなイメージがあるが、私はそんなイメージ通りの子だった。しかしそんな自分の繊細さが嫌いで、武者修行を行って無理やり克服した。その方法については以下の記事で記述している。

ただ、上の記事では具体的な記述を避けてしまった。なぜなら私の方法は少し過激だったからだ。

とはいえ、今朝この記事を改めて読み返してみたところ、「HSPを克服する話」の根幹となる部分でお茶を濁してしまっては元も子もないと思いを改めたので、「HSPを克服した話~本編~」として遅ればせながら本記事にて追記しようと思う。

上の記事ではHSPの特徴を列挙し、それぞれの対処法や克服法について自分が実践した経験について書いている。

私が思うにHSP特性の中でもっともしんどいのが「周囲の人間の感情に左右される」という部分だった。

本記事では、前記事で詳述しなかったこのトピックをメインに詳しく記述しようと思う。

HSPを克服するために私が行ったこと

さっそく本題に入るよ。入るよ?いい?昼食の話とかしとく?いらない?あっそ。

まずは「周囲の人間の感情に左右される」とはどういうことかというザクッとした定義を共有したい。前回の記事から引用↓

目の前で誰かがケンカをしていると双方の気持ちやその後の状態までイメージしてしまい強烈な不安に駆られる──
誰かが怒っていたり怒られていたりするとそれだけで不安になりその場を逃げ出したくなる──
誰かが悲しんでいると同調して悲しくなり、その悲しみを取り除けるならいっそ自分がすべて背負ってしまいたいとすら考える──
など、他人の感情にとにかく敏感です。人のささいな表情の変化からその人の気持ちを読み取れるだけでなく、他人の嘘を見抜けるのも特徴です。心を読めるタイプはこれだと思います。洞察力と想像力のなせる業かと思いますが、人の心がわかる分、余計な気づかいや配慮、気配りといった負担も大きいのです。

これがもうしんどい!しんどいのよ!人の感情に引っ張られるのしんどいよね!余分に配慮し、むだに責任を負い、やたらと頼りにされる。しんど!

周囲の感情に左右される人は、言い方を変えると「人の感情に共感できる優しい人」なんだよな。周りからすると私はとても優しい子だったらしい。でも、こんなにしんどいならぶっちゃけ優しい人間でなんかありたくないと思ったわけ。だから優しい人間をやめる修行をした。

当時、私が設定した目標は以下の二つ。

  • 他者の感情(特に怒り)に左右されないメンタルの獲得

  • 他者に同情しない利己視点の獲得

この二つって、言い換えると下のようになる。

  • 暴力耐性の獲得

  • 自分勝手さの獲得

これを目指して中1頃から自主的な訓練を始めた。言うまでもなく暴力耐性を獲得するには暴力に身を投じるのがもっとも手早いし、自分勝手さを獲得するには自分勝手な奴らを手本にするのが正攻法だ。

ここから先が、前回の記事で詳述しなかった本題である。

暴力耐性と自分勝手さの獲得

暴力を教えてくれる最たるもんがヤンキーだ。少なくとも中学時代の私はそう思った。だからヤンキーの友達を作り、その世界に少しお邪魔した。

当時、ヤンキーの世界は意外と居心地が悪くなかった。私の知らない新鮮な空気があったし、気のいい奴らばかりだった。フタを開けてみれば普通の奴らばかりだ。「ヤンキーは意外とまとも」という印象だった。

中学生時代はそんな感じで、たまに悪そうな奴とつるんでは可愛いいたずらをして遊んだ。彼らの影響で喫煙や飲酒を覚え、夜中に街をフラフラしたり学校をさぼったりするようになった。暴力耐性の獲得に貢献するような出来事はあまりなかった気がするが、「好きなことを好きなときにやる」的な自分勝手さの獲得には少し役立ったかもしれない。

高校生になると、いよいよ「本気で悪い奴ら」と付き合うようになった。わかりやすく言うと窃盗や強盗などのシャレにならん悪事を働く不良や半グレだ。

ある日、仲間数人で道を歩いていると、道行くまじめそうな青年に仲間の一人が「兄ちゃん金貸してよ」と声をかけた。当時で言うところのいわゆるカツアゲである。

その様子を見た時、私は「こいつらとは絶対に相容れない」と直感した。当時から私は弱い者いじめが嫌いだった。人に迷惑をかける行為も好かなかった。だから仲間のその行動に憤りを覚えた。

同時に「暴力への耐性を獲得するなら今だ」と思い、青年から奪った金を仲間の手から引っ剥がし、謝罪とともに青年に返したのである。そして仲間を咎めた。何と言ったかは覚えていないが「そういうことすんな」とか「だせーことすんな」的な他愛もない一言だったと思う。

当然、悪友は私に恥をかかされたと思い食ってかかってくると思った。その時は殴り合いでも何でもしてやろうと覚悟を決めていた。私の暴力耐性獲得のための最初の被験者になってもらおうという気持ちだ。結局殴り合いにはならなかったが、腹の決め方を学んだ一件だったように思う。

こんな感じで、当時は一般人より暴力耐性が高そうなヤンキーという人種を相手に、暴力耐性の獲得を隙あらば挑戦した。最初は怖かったり申し訳なかったりでメンタル的に落ち込みやすかった。相手が完全に悪く、あまつさえそいつに殴られても、以前の私はなかなか殴り返せなかったし文句すら言えなかった。自分は傷ついてもいい。でも相手を傷つけたくない。そんな水耕栽培みたいな思考に走りがちだった。

しかし、覚悟を決めて何かをやり遂げるたびに自信がつき、メンタルが着実に強くなっていくのを感じたのも確かだった。

ヤンキーでも暴走族でも何でもない私が、ひょんなことから20人ほどの暴走族を相手に喧嘩をしなければならなくなったこともある。割と最悪めの経験だったが、今になって思えば、私の人生の中でもっとも暴力耐性の獲得に貢献した出来事だったかもしれない。

とはいえ、実際のところ殴り合いの喧嘩ができるヤンキーはほんのごく一握りで、ほとんどがへたれだったので想像していたほどの耐性効果はなかった。そのせいか私はさらに過激な世界へと足を踏み入れ、最終的には道端で襲撃されたり報復されたり外国人と殴り合ったりが珍しくないライフスタイルになった。

この時期は犯罪、薬物、危ない金、ホームレス、事件が身近だった。

アウトローの世界に足を踏み入れても、本来そこが自分の居場所でないことはわかっていたので、決して一線を越えなかった。訓練を始めた中学生当初からそうだ。人に迷惑をかける行為も避けた。周りがシャブ中だらけになっても決してシャブに手を出さなかった。犯罪行為に誘われても乗らなかった。羽目を外すことはもちろんあったが、反社会的な価値観に自分を放り出さないのが私の最低限のルールだった。

こういう世界で生きるからには、薬物や犯罪を避けて通れないのは明らかである。なので私はあらかじめ法律と薬物について勉強した。いざというときのために弁護士とのパイプも作った。犯罪心理学もかじった。だからおそらく道を踏み外さずに済んだ。知識が自分を守ってくれたのだと思う。そんなわけで私には前科がないし呪い(薬物依存や不健全な人間関係など)もない。

とはいえ、いよいよトラブルから拳銃を向けられたり、薬物中毒の悪友が不幸な末路を辿る様子を目の当たりにしたりして遂に私は更生した。

いや、正直に言うと、私自身その世界に渦巻く悪しき欲望に半分ほど飲み込まれた。更生しなければもうこの世界で生きていくしかないことが予測できた。そこまでどっぷりいって、ようやく危機感を覚え足を洗ったのだった。

長い旅路の果て、遂にこっちの世界に戻ってきたのが25歳の頃。

こうしたプロセスを経て、なんだかんだ私は暴力耐性を獲得した。もう目の前で誰かが怒っていてもメンタルが不安定にならないし、怒っている人を見て傷つくこともない(今思えば、なぜ怒っている人に同調して傷つくのか不思議ですらある)。HSP的な特性にうんざりしていた中学生時代の自分に比べると、ずいぶんな変化だと思う。

もちろんHSPで悩んでいる人に「アウトローになったら人の怒りや悲しみに慣れるよ」などアタオカな提案をするつもりはないが、少なくとも「自分にとってもっとも厄介でもっとも克服が困難そうに思えた部分が荒療治とはいえとりま改善した」のは事実だ。

やればできるもんだなーと思う。

まっとうな生き方をしてきたとは思わないが、こういう道を歩んできてよかった。でなければ、もしかすると私は40のこの歳になっても、いまだ他者の感情に引っ張られたまま不安定に生きていたかもしれない。たとえまっとうに生きていたとしても、常に足元がぐらついている不安感を抱えたまま生きるのはごめんだ。方法がどうあれ早めに手を打っておくに限る。

こんな経緯があり、自分をそこそこタフな人間だと思っているが、それにも関わらず弟の一件でカサンドラになってしまったのは本当に理不尽である。ぶっちゃけ、暴力的な世界で抱えたどんな問題よりも弟の問題の方が深刻だった。

アウトローなんてルールなどあってないようなものだから、物事の解決って意外とそう難しくなかったりする。でも発達障害問題は「社会」というバキバキのルールの中で展開されるので、何でもありの世界と違い解決が超難しい。

こんなにタフな人生を歩んできたのに、まさか弟との経験が人生で1、2を争うトラウマになるとは思わなかった。人生とは妙なり。

あと、ついでだから言うが、こういう背景があり私は薬物教育の大切さを説きたいと常々思っている。なぜなら当時、覚せい剤と知らずにシャブに手を出す人がマジでびっくりするくらい多かったのと、悪友連中も薬物の怖さを知らないまま遊び感覚で手を出す奴が多かったからだ。

明らかに教育が敗北しているシーンの一つだと思う。

「薬物や犯罪なんて映画やドラマの中の話でしょ?」なんて思わないでほしい。なんの変哲もない平穏無事な暮らしを送っていた専業主婦が、会社員が、学生が、ある日を境に薬物と縁が切れない人生を送ることになった──なんてケースはザラにある。マジやぞ。反社とか暴力団なんかと無縁な人でも、無知が祟って地獄への片道切符を意図せず手にしてしまうことがあるのだ。そういうリスクから自分自身や大切な人を救うのはたった一つ“知識”である。つまり教育だ。

薬物教育、大事。

余談

「パクチーはカメムシみたいな臭いだから無理」
「パクチーの味は石鹸の味。食べ物の味じゃない」
──って言う人、いるよね。

私もそうだった。パクチー(香菜)を初めて食べたときは「石鹸の味じゃねぇかよ、食えるかこんなもん」だった。

「パクチーが石鹸のにおいのように感じる人は、そう感じる遺伝子を持っている」というツイートだったか記事だったかを見た記憶がある。

つまり私は、パクチーの香りを石鹸の臭いと感じる遺伝子を持っているわけだ。

興味深いのが、今の私はパクチーが大好きだということである。遺伝子変わったんか?進化したん?一代で?アホ抜かせ。

当時はパクチーが大好きな友人と食事をする機会が多かった。彼女は「こんなにおいしいのにちこちゃん食べないの?」といった具合である。怪訝な顔をしている私の隣りで彼女はパクチーもぐもぐむしゃむしゃだ。

「パクチーのおいしさ」という人生の喜びを私より一つ多く知っている彼女に嫉妬するかのように、私はパクチーの魅力を探す旅に出かけた。

食べたくもないのに何度も口にしては「うぇー」と眉間にしわを寄せ、「どうしたらこの激まずゲロ草をおいしく食べられるのか?」と思考実験を繰り返しながら研究した。

そんなある日、私はパクチーと油の相性のよさに気付いた。

これだ!と直感した私は、パクチーと油を使った料理(何の料理かは忘れた)を作り、「これならまぁイケそうだ」というところまでこぎつけた。

こんな調子でパクチーのおいしい食べ方を研究するうちに、いつの間にか私はパクチーに慣れてしまい、最後には「パクチーがなければこの料理は完成しない」と思うまでに至った。

おかしくないか?私はパクチーを石鹸と感じる遺伝子を持っているはずではなかったか?

今はどうだろう、パクチーを食べても石鹸のにおいなんてしない。むしろ「あの頃はパクチーの味をどうやって石鹸の味と解釈していたんだ?」とすら思う。当時の感覚がむしろ思い出せないしわからないのだ。

本編で話したHSP克服の話は、このパクチーのエピソードに通じるものがある。嫌いなものを咀嚼して味わいを見つけることでしか耐性を身につけられないと思うし、苦手だったものを好きになる方法はこれ以外にないと思う。「苦手を避ける」でなく「苦手と向き合う」は、私の人生全般、生き方全般、価値観全般に共通するベース思想だ。

だから私は常に逆をいく。

自分にないものを取りにいく。

その意思が自分を強くし、人生を豊かにしてくれることを知っているから。

「克服」とはそういうことだ。

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