オープンワールド人生
私がカサンドラになったのが2016~2017年なので、もう5、6年も経つことになる。
そのうち1年は弟の支援や事業の整理に追われ、うち3年は療養、直近の1~2年はなんとなーく療養の延長のような気分で平穏無事な暮らしを満喫していたが、いよいよ自分の中の何か(恐竜のようなもの)が長い眠りから目を覚まし、アップを始めた。
私には昔から変わらない目標がある。
「手抜きで楽に生きる」という目標である。
そのために人生を最適化し、楽をするために努力してきた。
経験やスキルは貯蓄のようなもので、積み重ねれば積み重ねるほど人生が楽になる。できるだけ早いうちにそれらを獲得しておけば、その先の人生は必然的に楽になるはず──という理屈で、それこそ小学校高学年のころから音楽、デザイン、文筆、アートや創作に没頭してきた。
その頃の私は、なぜかは覚えていないが、「普通に会社員になっても幸せになれない」と漠然と思っていた。「月給20万や30万じゃヤダ」と思っていたし、「上司や先輩に支配されて過ごすのもヤダ」と思っていた。だから頑張って勉強をして人よりいい成績をとり、人よりいい会社に行くことにメリットを見いだせなかったのだ。
そのせいか、勉強が絶望的に苦手だった。
正確には勉強が苦手というより、努力やミッションを強要され、大人が期待する通りにそれをこなす作業が嫌いだった。ゲームも同じ。一本道のロールプレイは退屈でやっていられないのだ。誰かが作った道を誰かが想定する通りにロールする。新たな可能性を見出す余地もなく、せいぜいあるのは意図的に演出されたハプニングと、あってはいけないバグ程度のもの。
つまらなすぎて無理。
だから私はオープンワールドが好きである。
結局は作られた箱庭だとしても、オープンワールドはまだ選択の余地があり決断の機会も多い。マイクラのようなゲームだといっそう遊び方や楽しみ方がプレイヤーに委ねられる。ツクール系だとそれこそ可能性は無限大だ。そこにある未知の可能性に私はとても魅力を感じる。人生も同じである。
だから、社会に隷属することでしか生きられない人間になることに強い抵抗感があった。想定内の未来を拒絶していたし、社会に飼い慣らされる感覚がどうにも苦手だ。実際に会社員になってみて、いよいよ「自分には合わない」と確信した。
上司や先輩を見て、「これが未来の自分の姿なら到底受け入れがたい」と思ったものだ。
退屈な「常識人」になりたくなかった。
ギャンブルや風俗にうつつを抜かすことでしか自分を救えない「常識人」になりたくなかった。
社宅でひっそりと不倫を繰り返すような「常識人」になりたくなかった。
仕事のできない後輩をいじめて悦に入る「常識人」になりたくなかった。
自らの意思で入社しておいて飲み屋では会社と上司の悪口と愚痴しか言えない「常識人」になりたくなかった。
平気で不正をはたらく「常識人」になりたくなかった。
単純に彼らが「常識」と呼ぶものが私には合わなかった。
子どもの頃に漠然とイメージし嫌悪感を抱いていた社会の姿そのものであった。
そんなわけで子供時代から将来を見越して好きなことに集中し、その方面の知識と実務的なスキルを自発的かつ実践的に学んできた。
趣味にうつつを抜かして勉強しないのを親から咎められることもあったが、私にとってそれは趣味である一方、今後の人生のカードとなる無形財産を築く重要な学習機会であり、自らの命運を分ける死活問題でもあった。
なので、自分のプライベートやプライバシーをできるだけ親から分離した。
当時、自発的に学んだことのすべてが、大人になってからおおいに役立った。文筆では大手出版社のプロデューサーに認められ、それに自信をつけた私は事業化し成功した。音楽も事業化し、デザインスキルも広告制作やWeb制作でおおいに役立った。
もっとも成功した事業においても、自社商品の企画や開発やデザイン、ブランディング、マーケティング、営業、経営、すべてにおいてこれまで培ってきたあらゆるスキルが生かされた。学校の勉強が役に立ったことはほとんどない。
ちなみに学校の勉強を否定しているわけでなく、私はただ「学歴が物を言う社会に自分が進むことはないだろうから、今後自分に必要となるものをできるだけ早いうちに吸収しておきたい」と思っただけである。
もちろんエリートに適正がある人もいるだろうし、そういう人は勉強をした方がいいのだろう。というか、そもそもそういう人は勉強が楽しいんじゃないだろうか?適性のない私には未知の世界である。
さて、カサンドラで病んで人生のほとんどを捨てなければならない状況において、ほぼためらいなくすべての事業を捨てて断捨離を実行できたのは、物事をゼロから構築してきた実績と自信(とそういう状況を想定したリスクヘッジ)があったからである。
「キャリアは作れる」ということを知っていたからである。
経験とスキルは貯蓄のようなもの。つまりそれは一種の「備え」だ。
貯蓄と違うのは「使っても減らない」こと。むしろ適切な場でそれを使えば使うほど利益を生んでくれる、まさに打ち出の小槌である。
確かに金でしか買えない経験も世の中にはある。
でも、使えば減ってしまう金や財を経験に投じることもなく、しこしこと貯めこむ価値観が私にはない。より大きな利益を生む知識や経験に投じた方が発展性があると思うからだ。「可能性」を生むには投資が必要なのだから。
私の最終目標は「楽に生きる」ことである。
だから今を頑張る。
子どものころからそうだ。
自分の幸せを自分で作り、それを手にするため、必要であれば大人にも社会にも常識にも抗った。
その積み重ねで、歳を経るごとに頑張らなくても金を稼げるようになった。厳密には25歳のころから人生がどんどん楽になっていった。
バリバリ働く時期もあったが、大半は遊んで暮らしている。特にこの数年は快適だ。
貯金でこの生活を維持するのは無理である。貯めたスキルや経験や知識があったから実現できたスタイルだ。窮地に陥りそれを乗り越えてこそ、改めて自分の人生方針が正しかったのだと感じる。
最近の私はやる気に満ちている。バリバリに商売をしていたあの頃の自分だ。意欲的でアイデアがあり、成果を求めている。今の快適な暮らしをそこそこ維持しつつ、またバリバリに働こうと思う。
つまり好きなことにバリバリに取り組むだけなので、実質的には遊んでいる感覚とほとんど変わらない。
日本社会はどんどん貧しくなっている。
これからはいっそう金を稼がなければならない時代になるだろう。
だからこそ、私は自分のテクニックとノウハウを(これからいっそう苦労するであろう)息子に伝えたい。
金を稼ぐ短絡的な方法でなく、打ち出の小槌を自分の中に育てる方法を教えたい。
オープンワールドを楽しみながら生き抜く術を。
誰かが作った道らしき道はある。ロールプレイを楽しんでもいいだろう。でも、オープンワールドに生きてきた私からすると、誰かが決めたレールに乗り、不満をこらえ、与えられた遊びで喜ぶふりをし、何事にも制限があると教えられ、安月給で1日の1/3の時間を会社に捧げるなんて無理だ。
自分が心地よい、楽しいと思う道を自分で見つけ、時にはそれを作り、楽しい遊びはもっと楽しくカスタマイズし、何事にも制限を設けず可能性を感じながら、年の大半を遊びながら値札を気にしないで買い物ができるくらいの収入が欲しい。
それを実現できることを知っているから、落ちぶれた直後でも割と早めに生活を建て直せた。
「無理」と思い込んでいたら詰んでいただろう。
「できる」と確信していたから実行した。
自分には才能があると思っているし、結果が才能を物語っているとも思う。
その才能は、私が幼少のころに勉強を捨て、自ら選択して獲得したものだ。
自分の適性を正しく理解し、幸せになるために何が必要かを子どもなりに考えた結果だ。
大人の制限から自らを解放した結果だ。
それを踏まえ、人生は制限で成り立っていないことを息子に伝えたい。
制限は秩序のために必要なだけで、あなたの幸せは必ずしも秩序から生まれるものではないということ。
人が言う「当たり前」を鵜呑みにせず、自分の幸せは自分で定義していいということを、いつかちゃんと伝えられたらと思う。
人生や社会には、触れることすらタブーとされる扉がある。
その扉は、ある日ある瞬間、突然目の前に現れこちらを睥睨する。
君はまだそんな現実を知らないだろう。
私の役目は、その扉の向こう側への行き方を教えてあげることだ。
やがて君が自分で一歩を踏み出せばいい。
大切なのは、その扉は必ずしも開けなければならないわけではないということだ。
君はその扉を無視できるし、扉という存在や概念を消すこともできる。
扉を開けてもいい。
開けなくてもいい。
大切なのは「開けなきゃ」という思い込みを捨てることだ。
扉がそこにあろうがなかろうが、
君の人生は最初から開かれている。
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