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私の成功哲学

私は自分を成功者だと思っている。

なぜなら超幸せだからだ。

ただ、一般的にいわれるような成功を私が収めているかというと、そうではない。だから一般的には成功者といわないだろう。

私がイメージする典型的な成功者像を端的にいうと、「高収入・幸せな家庭・豊かな人間関係」である。

私はこの典型的な成功者にほど遠いとは言わずとも、別に所得が多いわけではないし、さくらんぼの木の下にお手製のブランコを下げて遊ぶような広い庭があるわけでも、部屋の数を持て余すような立派な家に住んでいるわけでもなければ交友の幅も決して広くはない。

だから私はかつて「いつかたくさん稼いで、大きな家に住み、幸せな家庭を築いてたくさんの人たちと人生の喜びや感動を分かち合いたい」と思っていたし、それを実現するためにそれなりの努力もしてきた。

で、実現した。

今だから思うのだが、これらの幸せはほとんどすべてがまやかしだった。他人(社会)が作った成功のイメージをロールした結果に過ぎなかった。つまり当時の私は、幸せの価値観を他人(社会)に委ねていたのだ。自分で自分の価値観を築いていなかった。

現実はこうだ。

高所得になると税金がやばい。それでなくとも責任ある仕事を手掛ける局面が多くなると、仕事のプレッシャーやストレスもでかい。ストレスがでかいから発散するための支出も増える。金を稼ぐために金を使い、金を使うために金を稼ぐ。不健全な循環だが、おそらく世の中の多くの人がこのシステムの中で生きているのだろう。

果たして自分はストレスを負ってまでたくさんの収入を得たかったのかというと、「No」である。

当時は収入や生活レベルにばかり目がいき、それに伴うリスクやデメリットに鈍感だった。今だからはっきり思うが、私がほしいのは金じゃなく心のゆとりだ。

「広い庭があるでかい家」もそうだ。こいつは金食い虫も同然である。使っていない部屋があるにもかかわらずその家に住み続けたのは、何となくの優越感や安心感やステイタス性を欲していたからだろう。

今はそこそこ狭い家に住んでいる。

固定費もめちゃ安い。

なのに、家族は「前の(立派な)家より今の家の方が好き」と言う。

私も同感である。こんなに小さな家なのに、前の住居よりも遥かに自由や楽しさに満ちている。結局、立派な家に住むことが必ずしも最善手でないことを、経験を通して知ってしまった形だ。

さて、「豊かな人間関係」も成功者の条件だと当時は思っていた。

仕事も順調で、海外にもたくさんの仲間ができた。

しかし事業を撤退するとさっぱりである。

金が集まるところに人が集まるだけで、私個人を見て私個人と付き合いたいと思ってくれていた人間は、世界中にたくさんいた仲間のうち2割にも満たなかった程度だ。

「成功とは何だろう?」と私は考えた。

そして次の通り、一つの結論に達した。

自分にとっての成功は、高収入とでかい家と広い交友が条件ではない。むしろ私が最終的に思い描いた成功は、すべて逆だった。つまり「ほどほどの収入」「手が行き届くカスタム性の高い家」「洗練された人間関係」である。

実は、ずーっとずーっと昔から、自分にとっての幸せはこの三つであろうことに薄々勘づいてはいた。しかしそんな自分の直感を信じていなかった。なぜなら自分の人生にまだ納得していなかったからだ。当時は野心があったのだ。

しかしいざ成功に近づいた時、成功のために追い求めたあらゆるものが自分の負担になっていることに気づいた。金に依存した生活になっていたのだ。金を増やせば責任が増え、物が増え、維持費が増え、コストも増え、プレッシャーやストレスも増える。妻との間にも距離が生まれた。

だから世の中の社長連中は愛人を作るのだ。愛人に束の間の夢を見て心を癒してもらったり、一時的に現実から遠ざかったり、愚痴を聞いてもらったり慰めてもらったりするために。当時は私ですら愛人が欲しいと思ったほどだ。

そんなわけで、事業を撤退してから私はそれまで抱き続けていた成功のイメージをすべて捨てた。成功を実現しようと思ったら、実はそれが失敗でした──って現実に気づいてしまったものだから、その価値観を捨てることには未練もためらいもなかった。

この出来事は私の大事な教訓である。

やがて再び事業を広く展開すると思う。しかし決して多くを求めず、欲をかかず、背伸びをせず、自分にとって本当に大切なものを常に見失わないように、改めてここに記しておく。

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