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絵本を読む

「長ぐつをはいたねこ」
ハンス・フィッシャー ぶん・え
やがわ すみこ やく
福音館書店 1980年

子どものころに観たアニメ


この話はたしか子どものころに東映のアニメーション映画でみた。内容はあまり覚えていない。
ただ猫が袋に入れて王さまに献上するシャコという鳥が「おいしそうだなあ」と思ったことと、どうして猫が長靴を履いてるんだろうと思ったことだけを覚えている。
先日、ハンス・フィッシャー版のこの話(いろいろな作者がいろいろな出版社からこの話を出している)を図書館で借りて娘と一緒に読んだ。
ぼくが子どものときにはただただ楽しい冒険譚として読んだこの物語、大人になった今読むとかなり印象が違った。
ぼくがこの絵本から受け取ったのはふたつの異なる物語だった。

ふたつの異なる物語


ひとつめの物語は立身出世の物語だ。たとえ両親から遺産として一匹の猫しかもらえなかったとしても、人は努力と工夫しだいで成功者になることができる。この考え方は現代の資本主義社会にも通底している思想だろう。もちろん実際には努力が報われるとはかぎらないし貧しい者はいつまでも貧しいままという現実もある。だからこそこのあっけらかんとした成功物語は痛快なのだろう。
しかしここにもうひとつの物語がある。
現代的な見地から冷静に眺めると猫の行動は経歴詐称、恫喝である。物語のクライマックスは「わるいまほうつかい」と猫の対決で、猫は知恵を使って魔法使いを食べて城をそっくりいただいてしまう。だが考えてみてほしい。現実で考えてみればたとえ相手が「わるいやつ」だったとしても殺して財産を奪う権利は誰にもない。猫の行動は「半分グレー」どころかはっきりブラックなのである。

民衆の声


もちろんこれはおとぎ話だ。そんな現実の倫理観を持ち出していちゃもんをつけるのは大人げないのだろう。ただぼくは絵本を読んでいて立身出世を賛美するというおもての「声」の奥に民衆の声が聞こえてくるような気がしたのだ。
世の中で成功するのはいつだって嘘とイカサマで王様に取り入る紳士きどりの図々しい奴ら。百姓はいつまでも貧しいまま働きづめで年貢を収め続ける。そんな現実に対する苦々しい笑いが聞こえてこないだろうか。

猫の履く長靴


ではさいごにぼくが子どものころ疑問だった「どうして猫が長靴をはいているのか」を考えてみよう。猫が履いている長靴は雨靴でも作業用ブーツでもない。乗馬ブーツである。このことに気がつかないと意味がわからなくなる。
「長靴を履いた猫」は中世ヨーロッパの民話がもとになっているという。この時代、庶民にとって馬は乗り物ではなかった。それは貴重な労働力でありまた領主への貢ぎ物だった。拍車のついた革の長靴を履いて馬に乗る者は労働者を管理する貴族たちだ。長靴は身分の象徴である。ちょうどわが国の庶民たちが刀を腰に下げた侍たちに対してそうであったように、長靴を履いた者は無条件で敬わなければならなかった。その相手が下劣な品性の持ち主であったとしても。もしかしたらそれが猫であっても百姓たちは頭を下げたのかもしれない。
「長ぐつをはいたねこ」はそんな当時の社会制度に対する強烈な皮肉なのだ。民話からこの話を採話したハンス・フィッシャーがどのような視点を持っていたのかはぼくにはわからない。とにかくぼくには絵本の奥から当時の庶民の声が聞こえてくるような気がするのだ。

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