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加賀乙彦さんの訃報

 先日、作家の加賀乙彦さんの訃報に接した。
『宣告』の書き出しにガツンとやられて、加賀さんのような文章が書けるようになりたいと、大それたことを思ったのはいつだったか。

 鉄と石とが響き合う。コンクリートに嵌め込まれたレールを重い車が行く。食事運搬車である。青衣の雑役囚がいやいやながら押す様子が目に見えるようだ。看守が鍵を取り出した。鍵先が油染みた音をたて、鉄扉が開くと、鋭い錆の軋みが耳底をひっ掻いた。

「宣告」新潮文庫

 精神科医でもある加賀さんは、東京拘置所の精神科医官を務めた際、ゼロ番囚と呼ばれる多くの重罪犯たちと面接し、その心理状況を細かく記録した。彼らの多くが拘禁反応(拘禁された状況に反応して起こる、妄想や幻覚などの様々な精神症状)に苦しんでいる現状に触れ、死刑とは何かと、あらためて疑問を投げかけたのだ。
 そこから生まれたのが、拘置所を舞台にした長編『宣告』だ。
 若い精神科医近木の目から見た、死刑確定囚たちの姿が描かれている。


『科学と宗教と死』では、「迫りくる老いと死」という章で、浴槽に沈んでいる奥様を深夜に見つけたときの様子が書かれている。医師として知っている限りの蘇生術を試みたが、奥様の脈は戻らなかった。クモ膜下出血だった。

 妻の骨壺を寝室に置いて花で飾りましたが、眠れない夜が続きました。睡眠剤を飲んでやっと眠るのですが、午前三時ごろに目覚めてしまいます。妻の死を知った時刻です。けれどもリビングは暗い。私は一人になってしまいました。

「科学と宗教と死」集英社新書

 死んで天国で妻に会う夢をときどき見るようになった、とも書いている。
今頃はきっと再会を果たされて、奥様とゆっくり語らっていらっしゃるに違いない。
 緻密で重厚な文章を読むたびにいつも、鍛えられている思いだった。
 今はただ、感謝の言葉を伝えたい。

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