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神学校を卒業しないと牧師じゃないのか

最近、神学校を卒業していない牧師は牧師じゃないといったような論調で話をしている方が増えていることに気付きました。

私自身は伝道者の傍で、伝道者を支える奉仕をさせていただいている身分として、このような神学校史上主義は排除されるべきものだと考えています。

なぜかというと、神学校は人間が作り上げたものであり、神学校の卒業証書も人間が作り上げたものだからです。
つまり、神の介入がないということです。

牧師や司祭の召命は、神から与えられる非常に大切な務めであり、日々の私たちの信仰を建て上げるものです。
それに、神学校を卒業しているかどうかという判断基準が入り込む余地はありません。

宣教活動を始められたイエス様は神学校の卒業者でしょうか?
いいえ、違います。
イエス様は人間的な立場のみで言うと、ただの大工の息子です。

使徒パウロは立派な神学校を卒業したでしょうか?
いいえ、違います。
ガマリエル派の神学校の中退者です。

[使徒の働き 22:2,3]

パウロがヘブル語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静かになった。そこでパウロは言った。
「私は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

エリヤが建てた預言者を育てる学校から、エリヤの後継者が出たでしょうか?
いいえ、違います。
エリヤの後継者、エリシャは何の変哲もない一般人です。

[列王記 第一 19:15,16,19,20,21]

 主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。
また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。
 エリヤはそこを去って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎるとき自分の外套を彼に掛けたので、
エリシャは牛を放って、エリヤの後を追いかけて言った。「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたか。」
エリシャは引き返して、一くびきの牛を取り、それを殺して、牛の用具でその肉を調理し、人々に与えてそれを食べさせた。それから彼は立ってエリヤについて行き、彼に仕えた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

神は無学な者からでも、福音を語る務めを授けられます。

[アモス書 7:14,15]

 アモスはアマツヤに答えた。「私は預言者ではなかったし、預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。
しかし、主が、群れの世話をしていたところから私を取り、主が私にこう言われた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

ただの貧しい農家であったアモスでさえ、神の呼びかけにより、預言者となりました。

今の時代、公務員とかサラリーマンをしている方がいきなり神から召命を受けて、牧者として立てられることはあるのです。

[マタイの福音書 3:9]

あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。

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もしも、あなたに牧師や司祭が神学校に行かなければならないという先入観があるならば、あなたご自身が献身して、牧師や司祭に仕えるか、牧師や司祭の働きをやってください。

どれほど、その働きが大変なもので、
どれほど、その働きが思い通りにいかないことだということがよく分かります。

だから、教職者・牧者を侮ってはいけません。
彼らが神様から受ける裁きは厳しいのです。

[ヤコブの手紙 3:1]

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

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そして、私たち信徒は一人では聖書すら読めない、理解出来ない人間であることを認め、福音を語っているならば牧者に敬意を払うべきです。
逆に、牧者が福音を語っていなければ、キリストにあって、牧者と話をするか、教会を出るべきです。

あくまで、私たち信徒は牧者に従う義務があります。
牧者は羊飼いであり、私たちは羊です。

[ヨハネの福音書 10:4]

羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。

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だから、私たちは特に不特定多数の場で、牧師や司祭を批判すべきではないのです。

神学校を出ているか出ていないか、そのような不毛な考え方がなくなっていくことが、私の望みでもあります。

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