最近、神学校を卒業していない牧師は牧師じゃないといったような論調で話をしている方が増えていることに気付きました。
私自身は伝道者の傍で、伝道者を支える奉仕をさせていただいている身分として、このような神学校史上主義は排除されるべきものだと考えています。
なぜかというと、神学校は人間が作り上げたものであり、神学校の卒業証書も人間が作り上げたものだからです。
つまり、神の介入がないということです。
牧師や司祭の召命は、神から与えられる非常に大切な務めであり、日々の私たちの信仰を建て上げるものです。
それに、神学校を卒業しているかどうかという判断基準が入り込む余地はありません。
宣教活動を始められたイエス様は神学校の卒業者でしょうか?
いいえ、違います。
イエス様は人間的な立場のみで言うと、ただの大工の息子です。
使徒パウロは立派な神学校を卒業したでしょうか?
いいえ、違います。
ガマリエル派の神学校の中退者です。
エリヤが建てた預言者を育てる学校から、エリヤの後継者が出たでしょうか?
いいえ、違います。
エリヤの後継者、エリシャは何の変哲もない一般人です。
神は無学な者からでも、福音を語る務めを授けられます。
ただの貧しい農家であったアモスでさえ、神の呼びかけにより、預言者となりました。
今の時代、公務員とかサラリーマンをしている方がいきなり神から召命を受けて、牧者として立てられることはあるのです。
もしも、あなたに牧師や司祭が神学校に行かなければならないという先入観があるならば、あなたご自身が献身して、牧師や司祭に仕えるか、牧師や司祭の働きをやってください。
どれほど、その働きが大変なもので、
どれほど、その働きが思い通りにいかないことだということがよく分かります。
だから、教職者・牧者を侮ってはいけません。
彼らが神様から受ける裁きは厳しいのです。
そして、私たち信徒は一人では聖書すら読めない、理解出来ない人間であることを認め、福音を語っているならば牧者に敬意を払うべきです。
逆に、牧者が福音を語っていなければ、キリストにあって、牧者と話をするか、教会を出るべきです。
あくまで、私たち信徒は牧者に従う義務があります。
牧者は羊飼いであり、私たちは羊です。
だから、私たちは特に不特定多数の場で、牧師や司祭を批判すべきではないのです。
神学校を出ているか出ていないか、そのような不毛な考え方がなくなっていくことが、私の望みでもあります。