家族を捨てるとは
家族を捨てるとは何だろう?とふと、考えました。
そのまま読み取ったら、家族の縁を切って、家族なんて私の知ったこっちゃないというような、とんでもない言葉のように思えます。
福音書では家族を捨てることについてこのようにイエス様が仰せられています。
家族や職、地位、富を捨ててキリストに従うということは、同時に狭義的な意味で献身をするという意味でもあります。
神学校に入らないと献身にならないという考え方もありますが、ここでは、全てを捨てて献身するというところにフォーカスしましょう。
福音書では、ペテロ、アンデレ、ヤコブとヨハネの4人の漁師と、取税人マタイが全てを捨てて、キリストに従う様子が描かれています。
私自身も教会の拠点がある神奈川への移住を決めた時、親ととんでもない大喧嘩して、そのまま神奈川に移り住みました。
親とは縁を切ってもいい。
なんなら、今持っているスマホの解約をされてもいい。
そう覚悟を決めて、4日分の服と、聖書などの必需本、しばらく生きていくためのお金(5万もないです、その内3万は残しておく予定だった)を携えて、神奈川まで単身やってきました。
そのように、大胆な行動に移すことが出来たのも、数年間ずっと休まず礼拝を続けたことと、伝道者と信仰書を学び続けたこと、祈り続けて聖言をいただいて吟味し、神様の召しの確信を得たからです。
伝道者の家に住まわせてもらい、教会で伝道者が福音を語ることに集中するために、伝道者の手に余る奉仕を喜んでやっていました。
親はカンカンになって怒っていました。
ですが、親自身は私との和解を望んでいて、寂しいという気持ちがあったようです。
それで、連絡を取り合う中で、伝道者のアドバイスの下、親と仲直りしました。
ですから、私は親とは距離を取りましたが、連絡は取り続けることを決めました。
そこで、家族を捨てるという意味に戻りますが、家族との距離の置き方として、「物理的距離」を置くのと、「精神的距離」を置くというのがあります。
イエス様の言葉でもう一つ、イエス様に従うことと家族について書かれている箇所があります。
ここで、3通りの人が出てきます。
その中で①、②は直接的に家族のことを語っているわけではないので、今回は割愛します。
③の鋤に手をかけて後ろを振り返る人のことを書きます。
鋤に手をかけて後ろを振り返る人
この人は、主イエスから従いなさいと言われて全てを捨てて従った使徒たちとは違い、「従います」と宣言しながら、家族に別れの挨拶をさせてくださいと言っています。
これのどこがダメかと言うと、以前も言いましたが、イエス様に従う、献身する時には後ろを振り向いてはならない。そうでなければ、ロトの妻のようになるということです。
つまり、未練や家族への情を断ち切っていなければ、キリストに従うことが出来ないのです。
信仰者として必要なのは、「良い意味でも悪い意味でも、家族への思い、情、依存心、憎しみ」を絶って、「精神的に自立する」ことが必要です。
そうでなければ、キリストに本当の意味で従うことが出来ないのです。
家族への情が偶像になってしまうことがあるからです。
私は体験上では、家族に別れを言ってはいません。
連絡は家族が取りたいと望む限り取ろうと決めています。
それで、家族は未信者なので、私を思ってくれているのならば、キリストを信じてほしいという一心で、伝道活動をしています。
次の聖言は、私にとって希望であります。
このような言葉があるので、私は希望を持って、伝道をしています。
私が信じていれば、家族も救われるだろうという考え方には安住していません。
とにかく、家族には救われて、私たちの信仰の友、兄弟姉妹になってほしいと願っています。
だから、私は関西から神奈川に移住して、家族に何かあってもすぐに駆けつけられない場所に住み、ある意味、家族を捨てたような状況になりました。
ですが、家族とは、家族の希望ならば連絡を取って、喜んでもらっています。
献身は神学校に通うだけではなく、このように全てを、家族を捨ててキリストに従うのです。
そして、それは全ての人が出来るものではありません。
神様から明確に召命と聖言を祈りの中でいただいた人が献身をするものです。
家族とはたくさんトラブルを起こしました。
ですが、家族との関係が一新されて、昔の依存心があった関係から、少し精神的に境界線を引いて、対等な関係を作り上げることが出来るようになりました。
これも、家族を捨てることではないかと思います。
まずは、家族という偶像を捨てることから始める。
これが、キリストに従う第一歩となるでしょう。
ちなみに、この記事は私が学んで解釈したものですので、教会から直接このように指導されたものではありません。
と、途中で私が神様から召命をいただいたなどと書きましたが、今の私は不信仰で司牧に従えていない状況です。
このままでは良くない。
そう思っています。伝道者と話し合いつつ、召命だとか平安だとか勝手に思うことなく、怠惰にならないようにしたいです。
この世で生きていく限り、戦いの毎日なのです。
追記
余談ですが、神奈川に来てからこのかた、私は服を○年間買っていません!!
自慢じゃないし、むしろ悲しいです!!
恥ずかしいことも言います!!
下着だってボロボロ!!
○天や○mazonの他、通販サイトでエアショッピングするのが楽しくて仕方ありません!!
でも、後悔はしていません。
主に養っていただいていること、日々の糧をいただいていることに感謝しています。
主を信じているからこそ、今の私にはこのボロボロの衣服で十分だということに納得しています。
服が買えないほど貧乏な只中で、私の生活が神の恵みに満たされていることを学んでいくのです。
「貧しくあることを知る」。
使徒パウロも貧しさを知っていました。
だからこそ、主に従いたいと願い出た私も貧しさの中に宝があることを知っていきたいです。
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