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いのちを救うか、律法を守るか

イエス様の言葉の中には次のような言葉があります。

"イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。
人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」
それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。
イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。
パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。"
マルコの福音書 3章1~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

イエス様はご自身が片手の萎えた人を癒すかどうかを見ていたパリサイ派や律法学者たちに、律法をとっていのちを見捨てるか、いのちを救うか、どちらが大切なのかと迫りました。

私にも、救われた過程の中で、聖書が矛盾していたところがあったことに気付いたので、それを書き残そうと思います。


どのような言葉を信じて救われたのか


まずは、私がどのように語られて救われたのかを書いていきます。

その前に私の当時の苦しみを記します。
私は「バニシングツイン」と言われる、お母さんのお腹の中で双子の片割れを亡くすという体験をしています。
私はそのことにとても傷付き、喪失感、孤独感がとても強かったのです。

そこで、私は東洋思想を通して、「混沌の世界」というのを学びました。
この「混沌の世界」とは、私の中で死生観に繋がりました。
つまり、「死はこの世からの解放」であり、「人間の魂は混沌に帰り、また混沌から生まれゆく」というものです。
死生観を学ぶことによって私は、自分の双子がどこへ行ってしまったのか、知りたかったのです。
ですが、この死生観は私の根本的な救いにはなりませんでした。

ですから、私は自分の中で人間の死に対する価値観を打ち立てても、自分の片割れを失った悲しみからは解放されませんでした。
まだ、私には片割れがどこに行ったのか分かりませんでした。

そして、省略しますが、牧師と出会い、信頼関係を築き上げる中で、自分の一番の苦しみを牧師に伝えたのです。

「私には双子の片割れが亡くなってしまった過去があります。キリスト教では、生まれる前から亡くなった子供は、どこに行くのですか?」と。

そうすると、牧師はすぐに答えました。

「イエス様と一緒に天国にいるよ。どうしてか知りたい?」

天国は当時、未信者であった私の中のイメージでは、楽園のようなものでした。
混沌に帰って行ったと思っていた双子の片割れが天国にいる?どうしてだろう?
すぐに、私はなぜか聞きました。
すると、牧師は次の聖書箇所を示しました。

"ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。
そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。
「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」"
マタイの福音書 2章16~18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

この箇所は、イエス様のご降誕に際して、ヘロデの元を訪れた東方の博士たちが、イエス様を殺そうと目論んだヘロデに「生まれた子供(イエス様)に会ったらどこにいたか教えてくれ」と言われ、博士たちがイエス様を拝した後に、夢でヘロデの元に行かないように示されて、ヘロデのいる場所を迂回して帰ったところ、博士たちに騙されたと考えて怒ったヘロデが、男子の子供たちを虐殺した、というところです。

ここから牧師は私に、「この殺された男の子たちは天国に行ったんだよ。イエス様はキリストを知らずに死んだ人たちを見捨てる方じゃない」と言いました。

「イエス様を知らずに死んだ者たちを見捨てられないイエス様」

その言葉に私は心を動かされました。

このイエス様の優しさに私は涙を流しました。

今までいなくなっていたと思っていた双子の片割れは、イエス様と天国にいる!
この瞬間、私はイエス様を信じようと思いました。
こうして私は救われたのです。

しかし、聖書にはこのような言葉がありました。


誰が天に上るのかと言ってはならない


"しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。"
ローマ人への手紙 10章6~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

この聖書箇所を読むだけなら、私の双子の片割れが天国に行ったなんて言ってはいけません。

ですが、キリストの御名で双子が天国に言ったという宣言がなされなければ、私は救われなかったでしょう。
イエス様を信じていなかったかもしれない。
天国への望みを持たなかったかもしれない。

大切なのは、聖書の言葉を守ることではなく、私自身が救われて、イエス様を信じるかどうかだったのです。


大切なのは律法ではなく、人が救われること


ですから、牧師が聖書の言葉を守ることに固執するならば、律法主義になるならば、私は救われていませんでした。
しかし、牧師は律法ではなく、私のいのちを、私が救われて天国に行くかどうかを見ていました。
だから、私に双子の片割れは天国に行ったと、聖書の言葉をあえて外して言ったのです。

これによって、最初に紹介したイエス様の言葉が生きた言葉となるのです。

"それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。"
マルコの福音書 3章4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

イエス様は律法に囚われず、善悪にも囚われず、いのちを救うことを取られました。

この愛に満ちたイエス様の言葉があったからこそ、今、イエス様を信じる私がいるのです。

私は天国に双子の片割れを見出しました。
ですから、天国に行きたいと、双子に会いたいと願っています。

イエス様の元に立ち返る福音を信じましょう。
苦しみにとことん、陰府に下ってまで寄り添ってくださったイエス様を信じましょう。

そして最後に、私に天国を示してくださった牧師に、牧師を通して救いを宣言してくださった愛に溢れるイエス様に感謝を伝えます。

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