私の中の罪
私が牧会を受けていく中で、自分が願っていたこと、そしてそれが大きな罪であったことを告白します。
まずは、体を張って、奉仕の後でもいつでも関係なく、毎日のように司牧をしてくださった竪琴音色キリスト教会・主任司祭のリラ(Twitterアドレス・@NoelRefrain)にごめんなさいと心からの感謝をお伝えします。
私が嫌いな人たち
はじめに、私が大嫌いだった人たちについて語ろうと思います。
それは、「承認欲求が強い人」です。
私はTwitter等でそのように誰かに認められようとするツイートを見ると、イライラしていました。
クリスチャンであるにも関わらず、人を裁いてはその報いを受けることを繰り返していました。
報いとはなにか。
率直に言うと、夫婦関係の悪化です。私が裁いた人たちの悪口を聞いて、夫はとても嫌な思いをしていました。関係回復には一日を費やすこともありました。
なぜ、それだけ時間がかかるかと言うと、私が夫に反抗し、黙り込むからです。その間の時間は私と夫の双方に大きなダメージを与えていました。
そして、私が人を裁くことでイエス・キリストから離れる度に司牧が始まりました。私は司牧の中で言われたことを揚げ足取りし、自己嫌悪もしくは、司牧者を攻撃することに用いていました。
要するに、話を全く聞こうとしない問題児です。
ですから、司牧者であるリラにいつも嘆きを覚えさせていただろうと思います。
聖書は私に語りかけます。
私の罪
では、どのように私は自分の罪に気付いたか。
夫との夫婦喧嘩の中で、私はふと、ある感情が思い浮かんできたのです。
それは、もっと私を褒めてほしい、もっと私を認めてほしい。さらに言うならば、「あなたは間違っていない、あなたは正しい、あなたは頑張っている」と言われたがっている私自身がそこにはいました。
私は承認欲求の強い人が嫌いでした。
ですが、実は私が一番承認欲求が強い人間だったのです。
読者の皆さんはどうでしょうか?
自分が批判していることが、実は自分もしていたということはありませんか?
このように、自分が一番人から認められたいと思っていたから、私は自分が非難される時、自己正当化を図ろうとしますし、方々で怒りを感じていました。
それが、どれだけ人を傷つけてきたか計り知れません。
神から離れて自分に向かっていたこと、これが私の罪です。
悔い改めに至る
罪を犯している私をイエス様はどう見ていたでしょう。きっと悲しい目をして見つめておられたでしょう。
ですが、イエス様はそんな承認欲求が強すぎる私の罪のために十字架にかかられました。
イエス様は私に「頑張らなくていい、ここにいるだけでいい」と言われます。
その言葉を牧者から聞いた瞬間、私は泣き崩れてしまいました。
たとえ、誰かから褒められて一時は満足しても、また褒められたくなってしまうものです。一種の依存性みたいなものでしょう。
そうではなく、私が一番求めていた言葉は先ほどの「頑張らなくていい、ここにいるだけでいい」という言葉でした。
これからどうしたいか
これからは、そのような罪を犯すことのないように、私は少しずつでも意識していこうと思います。
私は以前は人ばかり見ていました。
時に聖霊に満たされた生活をし、時にとても世俗的な人間になる。
そのようなことを繰り返していたので、この悪循環を断ち切りたい。
そして、私に奉仕してくださる方に喜んで奉仕をしていただきたい。
今は強くそう思います。
罪を犯しても私を愛しているから十字架の苦しみを一身に受けてくださったイエス様。
罪を犯していたコリント教会の信徒たちを聖なる者と呼んだのと同じように、罪を犯したとしても、聖なる者と私を呼んでくださる、恵み深い愛する天の父なる神様を信じていきたいです。
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