理性に基づくことのない信仰
最近、教会のことを学ぼうとして、資料を読んでいます。
その中で気になる言葉を見つけました。
「主体的な信仰」や「理性的な決断と選択」等の言葉を聞くだけで嫌悪してしまう。
という、人間主体の信仰という言葉が苦しいというものでした。
そこで、私の持っている信仰観を書いていきたいと思います。
信仰とは?
信仰とは何か?
使徒パウロはこのように教えています。
信仰というのは、聖霊という三位一体(父、子、聖霊)の神様が私たちの内にいなければ、イエス・キリストを主と言えない。
つまり、信仰は聖霊様がいないと持てないということなのです。
この聖霊様は私たちに宿って、私たちにたくさんの行動を起こさせます。
聖霊を私たちに与えてくださるのは、神様、イエス様です。
聖霊は私たちに賜物を分けてくださり、私たちが神様と共に歩み、神様を愛して、神様のために働く力を与えてくださるのです。
「信仰は聖霊によるもの」。
これが、私の信仰に対する見方です。
リベラリズム -理性的に聖書を読む-
リベラリズムは聖書の言葉を解体して、聖書の言葉の一つ一つを研究していく考え方です。
リベラリズムを批判するわけではありません。
しかし、理性をもってして聖書を読むと、福音(救いとも考えて良い)が分からなくなる危険があります。
私が経験したリベラリズムの教えはかなり極端なものでした。
その中には、他にはない学べるものもありましたが...
ですが、私の持つ信仰とは相反するものがありました。
とある教会に行った時の、礼拝でのリベラリズムの説教では、「聖書のこの話はフィクションであり、事実ではない」と教えられ、
私は聖書原理主義(ファンダメンタリズム、キリスト教の中では右翼的な立場)ではありませんが、聖書を神の言葉だと信じていたため、ずっと聞いていて辛くなっていました。
それなら、マリアの処女懐胎も、イエス様の誕生も、十字架の死と復活もフィクションにならないか?という疑問が浮かびあがるからです。
その他の学びでは、キリスト教の教会の歴史を学んでいました。
聖書の使徒たちの手紙の書かれた年代はこれだというようなことを学んでいました。
確かに、自分が持っていない視点を与えられたことはありました。
ですが、礼拝説教と学びの共通点は、キリストの福音が語られていないのです。
とどのつまり、イエス様のことを語っていないので、最初は良くても段々と苦しくなっていったのです。
私は歴史の授業を学びたいわけでもなく、ただ、神の言葉を聞きたかっただけなのです。
理性的に聖書を読むと、「聖霊によってマリアはみごもった」ことや、聖書で語られている一つ一つの出来事が信じられなくなるのです。
信じられなくなった結果は、信仰の話が出来なくなり、キリストを信じると救われるというのが分からなくなるのです。
神様は人間の知識や理性を超えた方です。
理性とは、人間を中心にしたものです。
理性的な信仰というのが、人間を中心とした信仰、「主体的な信仰」や「理性的な決断と選択」に繋がるのです。
主体的な信仰がなぜ苦しいのか
ここからは、私の体験を書いていこうと思います。
聖霊によって信仰を与えられた、というのではなく、自分が信仰を持ったと考えるとするならば、私は自分が本当に救われて天国に行けるのか、ずっと悩み続けると思います。
私は一度、精神的な症状が出た時、イエス様を「知らない」と言い、イエス様を否定してしまった時があります。
私自身の立場と教会で教えられていることは、信仰は聖霊によって与えられ、仮に私が理性を失って不信仰に走っていても、イエス様の信仰を持ち聖霊が私の内におられるので、私は赦されていると考えられるのです。
ですから、赦されることがなく、天国にも入ることが出来ないという恐怖に怯えることはありません。
ですが、「私の信仰」、つまり主体的な信仰で頑張っていると、同じ事例で私が症状を出して、イエス様を「知らない」と言ったならば、次の御言葉が効力を発揮するのです。
私がイエス様を知らないと言ったら、イエス様ご自身も私を知らないと言うなんて恐ろしいですね。
ですが、これが理性的な信仰、主体的な信仰で頑張ると行き着いてしまうところなのです。
その結果、福音が分からなくなり、自分が救われてるのか分からなくなるのです。
まとめ
このように、聖書を解体したり、人間の理性で聖書を理解しようとする読み方や主体的な信仰の危うさを書きました。
これは、決して机上の空論ではなく、私が見て、体験したものです。
聖書は人には普通理解できないものです。
解き明かしの賜物がある人が聖書を釈義し、解き明かして教えていく、このような賜物の行使によって、教える人と教えられる人がいて、互いの持っているものを分かち合うこと(コイノニア)によって教会が成り立つのです。
そして、キリストを己ではなく、聖霊によって信じる人は信仰から落ちることを恐れることなく、生きていくことが出来るのです。
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