突然ですが、イザヤ書の御言葉を引用させていただきます。
これを今読んでいる方々、この御言葉をどのように捉えているでしょうか?
自分が愛されているんだと捉えていますか?
私は自分のこととして捉えています。
しかし、そう思わない方もいるようです。
イザヤ書43章4節は「イスラエルの民に向けたもの」で、私たち「異邦人でさらに未信者(不信者)」の人はイザヤ書43章3節が当てはまるのだと考えている方もいます。
では、イザヤ書43章3節を引用します。
確かに、エジプトを世だとか地上のことを表現していると読み取ることは出来ます。
しかしながら、未信者は全く神から愛されていないか?という疑問が出た時に、一つ、神が未信者をも愛していると解釈出来る御言葉があります。
神は全ての人が悔い改めて神の元に近付くことを願っておられます。
だから、キリストの再臨の時をすぐに来させるのではなく、私たち人間が悔い改めることを待っておられるのです。
これを「神様がキリスト者も未信者も合わせた、全ての人を愛している」と言わずして何と言いましょうか。
だからこそ、神の子、主イエス・キリストは伝道の務めを人に託したのです。
それから、異邦人の救いについて、ペテロとパウロの証言を取り上げてみましょう。
少し長くなります。
お忙しい方は、太字にしたところを読んでください。
ここでは、人々が悔い改めて救われることを神は異邦人にもお与えになったのだと言い、神はペテロに見せた夢の中で「神がきよめたものを、あなたはきよくないと言ってはならない」と語りかけています。
ここでの神がきよめたものとは、異邦人のことです。
もっと細かく言うと、神はペテロにカイサリアの兵士、コルネリウスにバプテスマを授けなさいという命令でもありました。
そして、パウロは宣教の際にこのように言いました。
パウロの伝道に対して、本来救いに入るはずのユダヤ人が神の言葉を拒絶したため、パウロは異邦人伝道に向かいました。
神の救いはイスラエルの民や異邦人、国籍、地位、経済力、性別に関係なく全ての人にもたらされるものです
このように、誰一人滅びることの望まない神は世の未信者をも愛し、救われるためにキリストをこの世に送られました。
だからこそ、キリスト者に施す世の人たちに対して、神様は祝福をもお与えになる御方です。
noteの呟きでも書きましたが、旧約聖書をイスラエルの民に書かれているものとし、新約聖書は誰にでも開かれていると、旧約聖書と新約聖書を分断する読み方は、「ユダヤ教主義的思考」です。
キリストがマリアの胎を通して来られ、十字架で死に、葬られ、復活して、律法(旧約聖書)が完成しました。
そして、キリストの昇天後、使徒たちの働きによって、新約聖書が完成しました。
もしも、旧約聖書がイスラエルの民に向けた書物であるならば、何度も預言書で指し示されている主なるイエス・キリストは、イスラエルの救いのためだけに来られた者であり、神にとって異邦人は救いに値しない者となります。
下記にキリストを指し示す預言の一部を引用します。
もし、主がイスラエルのためだけに来られたなら、異邦人であるツロ・フェニキアの女の娘を癒すことはしなかったでしょう。
しかし、イエス様は女の信仰を見て、娘を救いました。
イエス様は全ての人類、全ての罪人たちのために来られたというのが、私自身の持っている信仰です。
三浦綾子さんは、「世界中の全ての人が正しい人であっても、私という罪人のためだけに来られるでしょう」という言葉を残していると耳にしました。
旧約聖書だけの救いは限定的でイスラエルの民にあてられたものでした。
ですが、新約聖書の今の時代、イエス様が来られてからは、私たちも旧約聖書の中に入り、神の言葉を味わうことが出来ます。
新約聖書は旧約聖書の言葉によって理解が深められ、旧約聖書の言葉の一つひとつは新約聖書によって解釈されるのです。
ですから、私たちは神様にとって「高価で尊い者」なのです。