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「服従」に対するメモ書き

最近、SNSで活動をしていて、「服従」とは何だろう?と考える機会があります。

私はSNS上で、教会や上長の悪口を匿名で書いている人たちを見かけて、少し悲しい気持ちになる時はあります。
私は教会では牧師や司祭(以下、指導者と呼称する)が「キリストにあって福音を語っているならば」、その人に従うべきだと教えられてきました。

これは、感情論ではなく、指導者から福音を語られることによって、その人がキリストの召しを受けていると知ったら、従うべきなのです。

"よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。"

テモテへの手紙 第一 5章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

このように偉そうに語っている私自身は、指導者に従えていません。
それは、私の不信仰のゆえです。

ではなぜ、従えない指導者に何年もついていっているのか、指導者と共に教会を建て上げているのかと言うと、理由はいくつかあります。
それぞれ、説明しましょう。

①福音を語っているから
まず、指導者に必要なのは「福音を語っているかどうか」です。他の教会がどうであろうと、私は所属教会の指導者が、礼拝や学びにおいていつも福音を語っているので、所属教会に骨を埋める覚悟でいます。
そのために、地元を離れて移住しましたし、他の教会に通うような後ろ扉を開ける行為はしたことがないし、するつもりもないです。

②指導者の信仰や霊性を尊敬しているから
私は指導者に叱られようと、私が指導者にとんでもない反抗をしてしまおうと、最後には「仲直りしたい」「見捨てないでほしい」と思うのです。そして、反抗の後に指導者に謝りに行ったら、反抗の説明責任を果たした上で、「神様に謝るんだよ」と諭され、悔い改めてお祈りをします。
私の所属教会では数年前に大変なことがありました。
でも、指導者は自分の意思で教会をやめず、大変な問題を起こした人たちを赦していました。
指導者のその信仰を間近で見てきて、話をずっと聞いてきて、私は「あぁ、私の信仰はこの指導者の方に到底辿り着けない」と低くされたからこそ、尊敬しているのです。

③私の隠れた本心を引き出してくれるから
私はなかなか自分の本心を自分で理解し、話すのが苦手です。
ですが、所属教会の指導者は交わりの時に、そんな私に心を貫く剣のような鋭い質問をしてくるのです。
ある人は「そういったことは嫌だ」と思うでしょう。
しかしながら、私は何年も病気の症状に苦しみ、病識がないままでいます。
そんな私の苦しみを理解して、たくさん祈って、みことばを投げかけて、本当の私を引き出してくださる指導者にはとても感謝しているのです。
実際に、私は指導者がいなければ、自分自身の悪い部分に気付くことが出来なかったでしょう。人を通して与えられる神様の愛を知らなかったでしょう。

私の指導者は不信仰な私のために、誰よりも祈り、奉仕してくださっているのです。
私が反抗する度に心に痛みを受けても、それでも愛してくださる、教会の指導者の悪口を匿名で吐いたり、背を向けて去ることは、私にはできません。

だから、私は指導者に服従できなかったとしても、「主にあって服従できる謙遜な心を私にください」と主に祈り続けて、ついて行っているのです。

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