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マリア崇敬③ ー取り次ぎの母ー

今回は祈りについてのお話です。

ルター派や聖公会といった、ロザリオの祈りやマリア崇敬をしている教派以外のプロテスタント諸教会では、聖母マリアへの取り次ぎの祈りを「マリアの御名で祈る」とか、「マリアを拝んでいる」と誤解されている方が多いと思います。

そこで、マリアへの取り次ぎの祈りについて語ります。


取り次ぎの祈りを願うこととは


聖母マリアに取り次ぎの祈りをお願いすることを、プロテスタントの方に分かりやすく伝えるとするならば、「教会の兄弟姉妹にとりなしの祈りをお願いすること」と同じことです。

え、でも、聖母マリアは死んで天国にいるよね?
なんで地上の人に祈らないの?といったような疑問が出ることも想定出来ます。

そこで、イエス様の言葉をお借りしましょう。

[ヨハネの福音書 11:25]

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

主イエスを信じる人は死んでも生きる。
この言葉こそ、天国にいる人たちが生きていることを示しています。

そしてまた、イエス様はこのように言います。

[マタイの福音書 22:32]

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

キリストを信じる聖徒たちが、地上で肉体の死を遂げ、天国に行ってからも生きているならば、神は天国の聖徒たちの神でもあられるのです。

死んだ者たちは生きて神に祈りを叫び続けています。
そのことを証明するのは、ヨハネの黙示録です。

[ヨハネの黙示録 6:9,10]

 子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。
彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

これは、殉教して天に召された聖徒たちの叫びです。
この言葉を神様はずっと聞いておられます。
もしも、人が死んでしまうと祈ることが出来ないならば、この殉教者たちの声は存在しないはずなのです。


なぜマリアに焦点が当たるのか


カトリックにはマリア崇敬と諸聖人崇敬があります。
カトリック教徒は諸聖人に取り次ぎを祈ることもあります。

ですが、ロザリオの祈りや悲しみの聖母といった祈りはマリアに取り次ぎを願う祈りで、全ての聖人に祈りの取り次ぎを願う固定化された祈りはありません。

なぜ、マリアなのか?
それは、マリアが主イエス・キリストを胎に宿し、主の母になったからです。

他の女性がマリアのように救い主を宿すことはありません。
マリアだけが、イエス・キリストを産んだのです。

そのため、マリアは「天上の全ての聖徒たちの代表」という言い方が分かりやすいでしょう。

天上の全ての聖徒たち、という言葉を使いましたが、既に亡くなった私たちのクリスチャンの家族も、私たちのことを思って、天で私たちのために祈っている姿を想像することは容易だと思います。

しかし、天に召されたクリスチャンは膨大な数です。
もしも天に召されたのが、山田さんでも、田中さんでも、その方々の一人ひとりに祈りの取り次ぎをお願いしていたらキリがありません。

だから、聖母マリアは聖徒たちを総括する代表として、祈りの取り次ぎをお願いされるお方なのです。


聖書のマリアが取り次いでいる場面


実は、聖書にはマリアが取り次いでいる場面があります。
それは、ヨハネの福音書2章のカナの婚礼の箇所です。
本文を抽出してみましょう。

[ヨハネの福音書 2:1,2,3,4,5]

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

私ははじめ、マリアがイエス様に突き放されるような言葉を言われた後、「あの方(イエス様)が言われることは、何でもしてください」と言ったことが聖書に書き残されている意味が分かりませんでした。

イエス・キリストの奇跡の御業を書くだけなら、このマリアの一言はいらないのです。

私のこの疑問を解消したのが、ロザリオの祈りの光の神秘の中にある招きの言葉、「ロザリオの祈り」(カトリック中央協議会出版)に書かれているものを読んで納得しました。

その招きの言葉がこちらです。

[イエス、カナの婚礼で最初のしるしを行う]
イエスは、
母マリアのとりなしに応え、

カナの婚礼で水をぶどう酒に変えて、
弟子たちの信じる心を開いてくださいました。
この一連を捧げて、
イエスへの信仰を深めることができるよう
聖母の取り次ぎによって願いましょう。

ロザリオの祈り(カトリック中央協議会)

ここで、「イエス様がマリアのとりなしに応え…」と書かれています。
私が疑問を持っていたマリアの一言は、イエス様が奇跡を起こすために、給仕の者にとりなした言葉だったのです。

これを私たちのこととして当てはめると、

例えば、「マリア様、私のために○○をお祈りください」と願うと、マリアはイエス様にその祈りを伝え、「私にお祈りしてほしいと頼んだこの者の言葉を聞き入れてください」と取り次ぐのです。
そうすると、イエス様は御使いを通じて、祈りに応答してくださるということになります。

これこそが、聖書に書かれた、マリアが「取り次ぎの母」であるという所以です。


最後に


このように、聖母マリアが私たちの祈りを取り次ぐ者だということを書きました。

もしも、加筆の必要性を感じたら、文章を加えることがあるかもしれません。

次は、マリアが「キリストの十字架の証言者」であるということを書きたいと思っています。

この記事はあくまで、私自身の意見であります。
私の所属教会の信仰の一つであるマリア崇敬の記事はこちらです。
とても詳しく書いてあるので、もしよければ一読ください。

カトリックとプロテスタント、立場は違いますが、少しでもマリア崇敬に対する誤解を解くことが出来ればと思います。

互いを裁き合うことなく、馬鹿にすることもなく、知らないことを知ったように言うのではなく、ただ学んでいく姿勢をとっていくことが私の望みです。

読んでくださった方々に感謝します。

願わくば、聖母マリアのように私たちも神からの恵みを待ち望み、受け取ることが出来ますように。

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