見出し画像

神の母聖マリア

教団・教派の所属に関わらず、私たちの教会では福音宣教に集中することに加えて、マリア崇敬と諸聖人崇敬の実践であるロザリオの祈りと霊名を推奨しています。

リラは個人的に聖餐論とマリア論を独学せざるを得なかった経緯がありました。

プロテスタントの方々が「ロザリオの祈り」から「マリア崇敬」に導かれることは非常に大きな恵みとなります。

とは言え、ロザリオは使徒信条+主の祈り+アヴェ・マリアの祈りを捧げるのが基本です。

アヴェ・マリアの祈りの前半は、エリサベツが聖霊に満たされてマリアに語った言葉です。

[ルカの福音書 1:42]

そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[ホームページ]
https://graceandmercy.or.jp/app/

後半は、カルケドン信条で最終的に確定した「神の母」(θετοκος)である聖マリアへの取り次ぎの祈りになっています。

プロテスタント的には地上の兄弟姉妹たちへのとりなしの祈りの要請です。

取りなしは地上の聖徒たちだけが可能な祈りではありません。

天国に既に召されたキリスト者たちも祈ることができます。

キリストを信じて亡くなった私たちの大切な信仰の友や、信仰の家族が天国で私たちのために祈らず、何の関心も持たずに、神だけを礼拝して、天国生活を満喫するでしょうか?

[ルカの福音書 15:7,10]

あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[ホームページ]
https://graceandmercy.or.jp/app/

主イエスは明確に「大きな喜びが天にある」「神の御使いたちの前には喜びがある」と断言しました。

聖書の「天」は中国思想のような抽象概念ではありません。

[へブル人への手紙 12:22,23,24]

しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、
天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、
さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[ホームページ]
https://graceandmercy.or.jp/app/

天に召された聖徒たち、キリスト者たちが地上の私たちに対して、諸々の気持ちを抱いているのは一目瞭然です。

「神の御使いたち」は天使たちのことですが、天の聖徒たち、即ち、「天に登録されている長子たちの教会」「完全な者とされた義人たちの霊」は一人の罪人が悔い改めたら喜ぶのです。

パラダイスと陰府を絶対的に区別する方々は以下の聖句を引用するかもしれません。

[ルカの福音書 16:19,20,21,22,23,24,25,26]

 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[ホームページ]
https://graceandmercy.or.jp/app/

しかしながら、この「金持ち」は陰府で苦しんでいることから、神の言葉としてのキリストを信じていませんでした。

アブラハムの懐にいるラザロは楽園に行くことができました。

貧しい人だったからという以上に、キリストを信じていたからです。

そして、主は次のように言われました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」(マタイの福音書22章32節)。

神の御前では結局、キリストを信じている者は生きており、死んでも生きるのです。

[ヨハネの福音書 11:25,26]

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[ホームページ]
https://graceandmercy.or.jp/app/

このことから、マリアも、諸聖人たちも、既に帰天したキリスト者たちも、地上の基準からしたら眠っているように思えますが、天においてはきちんと意識があり、私たちのために取り次ぎの祈りをしていることになります。何故なら、地上のキリスト者の兄弟姉妹でさえ、取りなしの祈りをしてくれるのですから、地上の私たちよりも優れた存在になった天の聖徒たちが私たちのために祈らない理由がありません。

ですが、一つの問題があります。地上の兄弟姉妹に祈りを頼む場合、口頭で伝えることが可能ですが、天の聖徒たちに取りなしの祈りを依頼する時はキリストに対する唯一の祈りが妨げられないようにしなければなりません。

だからこそ、諸聖人たちと殉教者たちを包括する神の母聖マリアへの崇敬をロザリオの祈りで「取りなしてください」とお願いすることができるのです。

その理由はマリアがキリストの受肉の唯一の場となった故に福音の一部を担ったからです。

[ルカの福音書 1:46,47,48]

マリアは言った。
 「私のたましいは主をあがめ、
 私の霊は私の救い主である神をたたえます。
 この卑しいはしために
 目を留めてくださったからです。
 ご覧ください。今から後、どの時代の人々も
 私を幸いな者と呼ぶでしょう。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[ホームページ]
https://graceandmercy.or.jp/app/

洗礼者ヨハネは確かに最後の預言者として、キリストから地上的に評価されましたが、神の国ではそうじゃないと言われました。

"わたしはあなたがたに言います。女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。しかし、神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。"
ルカの福音書 7章28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

しかも、使徒パウロは洗礼者ヨハネの役割も終わったとエペソの弟子たちを教えます。

[使徒の働き 19:1,2,3,4,5,6]

アポロがコリントにいたときのことであった。パウロは内陸の地方を通ってエペソに下り、何人かの弟子たちに出会った。
彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えた。
「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。
そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」
これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[ホームページ]
https://graceandmercy.or.jp/app/

ですから、キリストに祈る私たちは、地上における横の祈りに加えて、神の国における神の母聖マリアにロザリオの祈りで取りなしをお願いしつつ、諸聖人、諸聖徒、殉教者、守護天使の信仰と祈りに励まされていくことができるのです。

[へブル人への手紙 1:14]

御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[ホームページ]
https://graceandmercy.or.jp/app/

カルケドン公会議(451年)ではカルケドン信条が採択されました。その時に至るまで信仰者たちの間で「神の母」(θετοκος)という称号が聖マリアに与えられていたのです。

われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。
われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。
同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。
同じかたが神性において父と同一本質のものであるとともに、人間性においてわれわれと同一本質のものである。「罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである」
神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた。
彼は、唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、
二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。
子の結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、
唯一の位格、唯一の自立存在に共存している。
彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず、
唯一・同一のひとり子、神、ことば、イエス・キリストである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?