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2023年8月26日 主日礼拝説教の感想と交わり

説教題「時の終わり①ー神は語られた」
ヘブル人への手紙 1章1-2節

夏バテによる体調不良でなかなか主日礼拝の説教が書けていませんでした。

今回も、礼拝から2日後に感想を書くことになりました。
疲れでずっと眠りこけていました。
今、この記事を書いているこの時も睡魔に襲われています。
ですが、これは私たちの教会の説教の目的と交わりを書き記すために必要だと思ったので、寝る前に書きます。


私たちの教会は、「家の教会」です。
小さな家の教会ですが、SNSを使って、地理的な距離を越えた礼拝をリアルタイムで捧げています。

説教を聞いている時、私の家族との関係がフラッシュバックしてしまいました。
それで私は説教中に悲しくて号泣し、説教に集中出来ていませんでした。
もう一つ、印象に残ったことがありましたが、そのことを話さずに、私は過去のトラウマ体験を交わりの中で話しました。

すると、私が指摘されたのは、「説教は私を満たすものではないし、私の問題を解決するためにあるものでもない」ということでした。
本当は私は説教の中で、「神の言葉、神の語りかけ」を聞くべきだったのです。
それを、私は過去に振り向くことによって、神の言葉を疎かにしてしまいました。

この教会の交わりは本当に小さなものです。
説教を聞いても、なかなか、教会の信仰に寄り添った感想を言える人はいません。
ですから、私の感想はとても説教にとって重要なものだと教えられました。

教会は神の言葉を求める場所であり、神の赦しのある場所です。
だから、罪人である私たちは人ではなく、神を見なければならないのです。
私は家族という「人」を見て、トラウマ症状のようなものを出してしまいました。
それは、人を傷付けたり、自分の心理に良いものでは決してなくて、神を無視して傷付け、自分の心をまた引き裂く行為でした。

「神を見なさい」「主の方を向いてください」。
「あなたの感情を人にぶつけるのではなく、まず、神に全てぶつけてください」。
最近はそのように教えられています。
そうです。私はまず、人を見る人間です。

ですから、人を傷付けてしまうのです。
今回の交わりはとてもピンチだったのです。
私自身が信仰に立っていなかったからです。

しかし、私は交わりの中でもう一つの感想をしばらく号泣した後に、言いました。
「天路歴程が説教の中で出ていたけど、私と家族との関係が悪くなったのは、イエス様を信じてからです。天路歴程の基督者が家族を捨てたり、『頭が狂った』と言われていたことを聞いて、励まされました」と。

私は天路歴程を読了したことがあるので、基督者がどれだけ厳しい道を通るかを知っていました。
ですが、忘れていたことがあった。
それは、キリスト者は、「イエス様を信じる限りにおいて、迫害を受ける」ということです。
天路歴程の話をしたら、イエス様を信じたら、未信者からも、求道者からも、同じキリスト者の兄弟姉妹からも迫害を受けると教えられました。
どうしても、イエス様を信じたら、悪いことを言われるのです。

昔の信仰者たちの話をされたことがあります。
昔の人たちは、キリストを信じるがゆえに、迫害どころか、死に至るまでになっていました。
私は生ぬるいことを、とても思い知らされます。

ですが、迫害を受ければ受けるほど、天での報いは大きいのです。
神様は私から1秒たりとも目を離されることはありません。

[マタイの福音書 5:12]

喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

確かに、イエス様は過去・現在・未来を通して、救いをもたらすお方です。

しかし、イエス様の現存は、今、私が犯している罪の赦しは、現在にある現実のものなのです。
ロトの妻を何度も想起しますが、私は過去に生きていく人間であってはいけません。

私は交わりに対する責任に重荷を感じました。
しかし、交わりの最後に、「あなたは最初は過去の自分のことを話したけど、その後ちゃんと神の言葉に立ち戻れたことは、すごいことだよ」と言われました。
私は、その言葉が嬉しかったです。
それまでは、説教の聞き方がなっていないことを思い知らされて、落ち込んでいました。

それで、私は「私は赦されていますか?」と聞いたら、「そうだよ」という答えが返ってきました。

教会は赦し合う場だと、説教で何度も語られています。
一人が罪に陥る(神から離れる)ことをしたら、それは正されるべきものだと思います。
私はいつも、迷子になるので、よく正されています。
だけど、それを悔い改めた時には、ちゃんと「神様は赦しているよ」と赦しの宣言を交わりの中で受けて、その一連の罪の告白と赦しを受けることこそが、私が教会で交わりを怒られてもずっと続けたいと思う理由です。
罪が赦されることが、私にとってどれほどの喜びか計り知れません。
罪深い女がイエス様から言われたことを、反芻しています。

[ルカの福音書 7:47]

ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

少なくとも、私たちの教会の説教では「神の言葉を聞くこと」であり、交わりでは「神の言葉から教えられたことを共有する」場所です。
全ての目的は神を中心にしています。
私たちと志を同じくする教会もたくさんあると思います。

私が今、一番すべきことは、神を見ることです。神を味わい、神を知ることです。

これは私自身の感想なので、自分のための祈りになってしまいますが、これからの礼拝で、私が神の言葉を聖心のままに聞くことが出来ますように。

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