2024年9月15日 主日礼拝説教(ヘブル書5章14節)の感想
今日はヘブル書5章11-14節、特に14節からの講解説教でした。
説教題は「信仰的理解力④———識別と訓練」です。
そこから語られたことのメモの一部をまとめて、感想を折り合わせて書いていきます。
説教音源は以下のプラットフォームにて公開されています。
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先週の主日礼拝の説教の感想(ヘブル書5章13節)についてはこちらをお読みください。
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本日語られたヘブル書5章14節の本文を引用します。
このヘブル書5章14節は、同章11-14節の結論部分です。
「見分ける」とは、ディアクリシスというギリシャ語原文で、「識別する、区別する、判定する」という意味です。
私たちは自分にとっての善や悪を中心にして物事を考え生きてきたと思います。
しかし、そこに絶対的な基準はあったでしょうか?
私たちが自分で決めた基準や、律法主義に陥った時の基準は、善悪の判定は全て相対的な基準だったでしょう。
絶対的な基準は神様にしかないのです。
本文の「感覚」とは原文でエス・シティリオンという「(感覚器官から転じて、)道徳的判断力」を意味します。
これは、人間の感覚を意味しているのではなくて、キリストの十字架の死において、何が神の御心にかない、何が反しているのかが分かることです。
訓練されたという言葉は、ギムナゾーと言い、「運動する、精神的に鍛える、訓練を受けて身につける」という意味となります。
神における判断力は訓練で身につくことです。
固い食物である「キリストの十字架」という神の奥義は訓練の賜物なのです。
訓練によって、私たちは神から来たものと人間から来たものを判別していくことが出来るようになっていきます。
以上によって、自分にとっての善や、相手にとっての悪という人間に拠った価値基準ではなく、神の善悪が判断基準になるのです。
キリストを信じることによって、サタンの誘惑や世の偽り、罪の惑わしに攻撃されることから離れられます。
私たちの信仰が、真理と虚偽の間を揺り動き、ぶらぶらしている状態はであるならば、苦しみが止むことは難しいでしょう。
神の言葉を福音として聞き続けることは、キリストの知恵に堅固に立つことです。
キリストにある知恵と知識に頼り、十字架信仰を深めていくことで、識別することが出来るようになります。
自分自身の霊性の中で、何が神に喜ばれることなのか?自分は他人におべっかを使っているのか?ということを判断していくのです。
キリストの知識と知恵を通して、この世の全てに関して、自分の召命に生きることが出来ます。そのために必要なことと不必要なことを取捨選択していくことが可能になります。
神の言葉がキリスト者の唯一の基準です。
これを禁止したり退けてしまうのは、悪魔の仕業であります。
ですから、悪魔的な禁止から解放されている人たちは、説教を聞き続けること、聖書を読むこと、祈ること、賛美することに怠惰になってしまってはいけません。
絶対的な善悪の基準は神にのみ存在する…という話から、ふと、私は救われる前の高校生の時代に、私が周りの同級生たちを見下して、自分の中の絶対的な価値基準を持ちたいと思って、東洋哲学を学んだことを思い出しました。
まず、老荘思想に手を出して、老子の教えから虚無主義に染まってしまった過去が私にはあります。
その時は夢も希望もなく、人生を諦めたような、川に流されるような生き方をしていました。
自分に自信がなく、自分の価値基準に頼ることも出来ず、他人よりも上になろうとして哲学を学び出した私こそが、高校の同級生の中で一番哀れな人間だったと思います。
他の人たちの大半は自分自身の価値観に疑問を持つことなく生きていくことが出来ていたでしょう。
ですが、だからこそ私は絶対的な基準を、唯一の知恵を持つイエス様に頼るしかなかったのです。
それで、今日の説教で私の過去の解釈、当時の自分がどれほど惨めな人間だったかを読み解くことが出来て嬉しかったです。
しかし、交わりの中でこのことを話した時、私から希望を奪ってしまった哲学というものの価値観は今も私の信仰を妨げるものになっていないか?ということを問われました。
救われる前の私の価値観はあまりにも自然に私の中に入ってきていて、それを言われた時は、目から鱗が落ちる思いでした。
ですが、私の対人関係における諦めの速さは、確かに神様との関係にも影響を及ぼしていて、悪さをするものになっていると感じます。
以前、精神科の医師から教えられた、「自分自身の客観視」は本当に大切です。
だから、もっと信頼関係を築き上げてきた他の人たちの声に耳を傾けていこうと思います。
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