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聖書のいう「良い行い」とは

先日、「天国」というプレッシャーという個人が書かれたブログ記事を読みました。
そこでは記者が天国について講師から語られたことが書かれていました。講師は「天国へ行ってきた人」という触れ込みで、それだけでええ…となるような方ですが、この筆者の方はその講師の教えに見事に騙されていました。
講師の話の中の一つに「天国で住む家の大小は、地上での行いによって決まる」ということでした。そこまでは分かるのですが、追加して講師は「地上で頑張って教会に仕えたクリスチャンは豪華な館に住める」と言ったそうです。ありえない…
他にも話していたことがあるそうですが、この私の記事では割愛します。内容的には地上で頑張った人ほど、天国で重宝されるといった内容でした。
その話を受けて筆者は、その話が本当だとしたら「天国」は現代の資本主義的競争社会の延長線上にしかないと言い、「地上で頑張れば天国で有利になる」「能力がある人ほど天国で有利になる」と「天国」に行くことがプレッシャーになりそうだと書いていました。筆者はこのプレッシャーが「(人々を)教会に奉仕させるための装置」として働くと断言しています。
まとめとして、筆者は「地上での良い行い」をしたくても出来ない人もいる、「皆は等しく神の子である」と言っても格差や不平等がキリスト教にはあるとしています。

これは、はっきり言うと、筆者が話を聞いた講師が圧倒的におかしいし、筆者もその話の真実を聖書から確認することもなく、鵜呑みにしてしまって拡散しています。
この話は絶対にそのまま聞いて鵜呑みにしてはいけない話です。

「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、」
‭‭ペトロの手紙二‬ ‭2:1‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/2pe.2.1.新共同訳
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これは、私自身の考え方ですが、愛ある神様がどうして「教会で奉仕してこの人は偉いから天国では良い思いをさせよう。あそこの病者は教会のために何もしてないから天国では良い思いをさせてやらない」と言うでしょうか。
イエス様は律法学者やパリサイ人のために来たのではなく、水商売をしている女性や取税人などの罪人たちのために来られました。

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭9:13‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/mat.9.13.新共同訳
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律法学者やパリサイ人は神殿の中で立派な行いをしていたはずです。それなのに彼らはイエス様の選びから外された。それはなぜか。

第一にイエス様を信じて救われたのは罪人たちだということ。
第二に律法学者たちは自分たちの行いによって神様から義と認められると考えていたからです。

罪人たちは自分たちの罪を悔い改めて、イエス様についていきました。取税人の筆頭として有名なのはマタイとザアカイ、売春婦として有名なのはマグダラのマリアですね。彼らは特にイエス様から愛された弟子たちでした。
一方、律法学者たちは、慣習化した律法を守ろうとし、イエス様をどうにかして訴える機会を探していました。

「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」
‭‭マルコによる福音書‬ ‭3:1-6‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/mrk.3.1-6.新共同訳
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ですので、主は病者や障害者、箸にも棒にもかからないような人たちを愛してきました。そんな人たちにどうして、天国で冷遇しようだなんて思われるでしょうか。


前置きが長くなりました。
さて、この記事の題名でもある「良い行い」とは何を指すのか、聖書の言葉から探してみましょう。

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭2:10‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/eph.2.10.新共同訳
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この箇所の「神が前もって準備してくださった善い業」は新改訳聖書2017では、「(神が)その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」とあります。
すなわち、「良い行い」とは神が用意してくださるものです。決して、健康な人が善行をすることや、頑張れない人が置いてけぼりのものではありません。

「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」
‭‭テトスへの手紙‬ ‭3:5‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/tit.3.5.新共同訳
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私たちは神が与えられた聖霊によって新しくされ、聖霊のうちに歩みます。
聖霊は神の御心のままに私たちを歩ませます。
それが、療養生活を送ることだったり、家族のために家事を行うことなら、それらを行うことは天に富を積むことなのです。
私の所属する教会の牧師から聞いたのは、ジャン・カルヴァンは「病気や障害で療養することや家事をすることは立派な職業である」と言ったそうです。

ですから、キリスト教における「良い行い」とは、資本主義社会のような競争とは違います。健常者でも、病者でも、障害者でも、聖霊に従うならば神の用意された道を歩むことが出来ます。

では、教会で奉仕の務めに与っている人は天に富を積んでいるのか。
それは、奉仕者の信仰によります。たとえ、奉仕者でも奉仕が偶像となり、人を高ぶらせるならば、その奉仕は人間の働きであり、傲慢の罪です。そのような奉仕者はすぐに奉仕から降ろされるべきです。
高ぶりの罪を犯して悔い改めない人間が、天に富を積んでいるかどうかは自明の理でしょう。
人間の努力や頑張りで、神を喜ばせることは出来ません。
新共同訳の翻訳が微妙だったので、口語訳になりますが、神がただいけにえを喜ばれるお方でないことを書きます。

「あなたはいけにえを好まれません。 たといわたしが燔祭をささげても あなたは喜ばれないでしょう。 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。 神よ、あなたは砕けた悔いた心を かろしめられません。」
‭‭詩篇‬ ‭51:16-17‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/psa.51.16-17.口語訳
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ここまでが、私が「良い行い」について、Twitterでもまとめた内容です。ここからは、私の投稿について、よく理解されていないであろう投稿があったことを書きます。
その人は、私が語った良い行いについて、「良い行いとは神を信じてなす全てのこと」だと思うと投稿されていました。
残念ですが、私が伝えたいことは違います。

少し下手な例えかもしれませんが、あるキリスト者AさんがBさんに「神の御心だからあなたは○○しなさい」と言ってきたとします。ですが、言われたBさんは良い気分になるどころか、人間関係へのダメージを受ける。これは御心ハラスメントと言われたりするものです。Aさんは神を信じて話しているつもりが、相手を傷つけ、人間関係を壊すならば、良い行いとは言えないでしょう。
もう一つは、仕事で忙しいキリスト者がいたとして、その人は神を信じています、今の職場も神から与えられたものだと信じていますが、忙しさのために礼拝が蔑ろになると、神様は喜ばれないでしょう。

このように、神を信じていても、人間関係を破壊したり、自分の力で頑張ったりするならば、良い行いとはなり得ません。
その場合、いずれ自分の行いは破綻します。
だから、神を信じて行う全てのことが良い行いなのではなく、神から「信頼されて」行う行いのことを良い行いと言うのです。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
‭‭ヨハネの手紙一‬ ‭4:10‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/1jn.4.10.新共同訳
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私たちが神を信頼したのでも、愛したのでもなく、神が私たちを信頼し、愛してくださっているのです。
私たちは元々、不信仰で愛なんて微塵もない人間でした。
その人間に神は愛を溢れんばかりに注いでくださいます。

「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」
‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭12:3‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/1co.12.3.新共同訳
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私たちが神を信頼したのではない、と書いたのは上記の聖言があるからです。
聖霊によって、初めて私たちは主イエス・キリストを信じるという信仰告白が出来るのです。
誰も自分の力で信じることは出来ません。


本題はここでおしまいです。
最後に、私たちが間違った教えに惑わされないためにはどうすればいいか、お伝えしようと思います。
使徒たちが宣教していた時代、信徒たちは熱心に聖言を受け入れ、教えが正しいものかどうか精査しています。

「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。」
‭‭使徒言行録‬ ‭17:11‬ ‭新共同訳‬‬
https://bible.com/bible/1819/act.17.11.新共同訳
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ですから、間違った教えを鵜呑みにしないためにも聖書を読む、聖書に聞く、聖書を調べることはとても大切なことです。
分からないことは全て聖書に答えが詰まっています。聖書を読んでも分からないなら、牧師に聞くのも良いことでしょう。
この悪い時代、いつどこで偽教師と出会うか分かりません。信仰を守っていくためにも、神の聖言による武装を怠らないようにしましょう。

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