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たとえ、癒やされなくても

X(旧Twitter)の私のポストに反応してくださる皆様、いつもありがとうございます😊
今日書く記事は、病気の癒しを何度祈っても癒されないクリスチャンの人たちに向けたメッセージです。

躓きの言葉


今日(2022/11/09)、私はとんでもないポストを見て、あるポストをしました。

まずは、とんでもないポストから、「祈ったけど、癒やされないのはダメ。信仰がない。聖書をちゃんと読め。」といった内容です。これをかなり病者を馬鹿にしたような言い方でした。

「癒されないなら信仰がない」と言われたら、病者の方々、心が痛みませんか?
教会で同じような言葉をかけられたり、X等SNSで、似たポストを見ませんでしたか?
そうです。この言葉は闘病しているクリスチャンの方々にとって、躓きの言葉です。
あなた方を傷付ける言葉です。
癒しを強調しすぎる人はこのような言葉を、何の良心の呵責や罪意識もなく吐くことがあります。

私自身も統合失調症を人生の4分の1年患っているので、病気を持つ人たちの気持ちが分かります。

私たち病者は病気の癒しを誰よりも祈ってきたでしょう。涙を流しながら「主よ、どうしてですか?」と問うこともあるかもしれません。頼れるお方がイエス様しかいなくて、聖書をずっと読んできた人もいることでしょう。病院に入院して教会に通えなくてもずっと、祈りによって信仰が守られている人もいると思います。
それでも癒やされず、号泣しながら苦しんだこともあると思います。
キリスト者でありながら、罪意識に苛まれながら「消えたい」と呟くこともあるかもしれません。
とんでもポストに対して、私の気持ちの何が分かるのか、と言いたい方もおられると思います。
そして、私たちは知っています。癒しは方法論でどうにかなるものではないと。

ジョン・ウィンバーという癒し手が過去におられました。
その方は癒しの賜物を行使して、数々の人を癒やしていました。
しかし、この方は晩年に不治の病に罹り、自分と多くの人から癒しを祈られていました。
その結果はどうだったのでしょうか?
最後まで彼は癒やされませんでした。そして、彼は悔い改めたそうです。
その後、彼は「PowerPoints」という著作を最後に残しました。
ですが、彼の遺作ではなく、今は彼の癒しの働きだけが彼の弟子たちによって広められているそうです。少し悲しい話ですね。

話を元に戻しますと、癒やされないのは自分たちに信仰がないせいではありません。
ですから、祈っても癒やされないから自分には信仰がないんだ、と苦しむ必要はありません。
そして、病が癒されました!ハッピーハレルヤ!みたいな癒しの証や、「信仰がないから、祈りが足りないからあなたは癒されない」という人の言葉に耳を貸す必要もありません。


躓きの言葉に対する反論


ですから私は、Xにて、闘病しているクリスチャンに対して「癒しがないのは信仰がない」という言葉は躓きの言葉だと反論致しました。
どれだけその人が、人のために祈っても、病者に対してそのような言葉が吐けるのを神様は喜んで見ておられるでしょうか。

イエス様はこのように言われます。

[マタイの福音書 10:26]

ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[マタイの福音書 15:18]

しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

その人がどれだけ表面的に取り繕おうとも、良い言葉や良い活動を一見しているように見えても、本心は明らかにされ、その人が言葉にしたその言葉によってその人は汚れます。

そして、パウロは愛のない人たちに対してこのように言いました。

[コリント人への手紙 第一  13:2]

たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

どのような賜物があっても、病者に寄り添えなければ、愛がなければ、その賜物は無に等しいのです。


『癒されませんように』


これは、「べてる(神の家という意)の家」という精神障害者のコミュニティ活動の中で出版された本のタイトルです。インパクトのあるタイトルだと思います。

私たちは病気の中で、何度も癒されたいと思ったかもしれません。
ですが、私たちがもし完全に癒された時のことを考えてみましょう。

障害認定や病気の重さによって、社会福祉を受けている人はその社会保障が取り去られることになります。
それは、世において行政が私たちを「病気や障害があるから守る」という必要がないと判断するからです。
そうなると一番初めに私たちが何をしなければならないのか。
「生きるために仕事を探さ」なければなりません。
仕事をして給料を得なければ、家賃が払えません。公共料金を払えません。生きていけません。
社会は容赦がないです。私たちが泣こうが喚こうが、お金がなければ見捨てられます。

そして、病や障害を持つ人は若い頃から社会に出るにあたって、リタイアした人が多いです。社会人経験が少ない人もいますし、長年闘病して気付いたら年を取っていたという人もいます。
社会はそのような人たちにとても厳しいです。
例えば、仕事の面接で無職の期間を聞かれた時に、「ある病気と闘っていました」と正直に答えてしまうならば、基本的にまず落とされます。社会はリスクのある人を雇おうなどと甘い考えは持っていません。

私自身は社会人経験が全くないので、これらは難病を持ちながら理解されず、社会に揉まれに揉まれた教会の牧師から教わった社会の残酷さです。

私たちの中には生きるために社会保障を受けている人が多いと思います。
私は「神の召命に生きるために」、病気に苦しむことがないように、癒しを祈るべきだと思います。
世が何と言おうとも、私たちは神を信じる人です。
だから、ただ「癒されますように」と祈るのではなく逆に、神様のみこころを満たすために、「癒されませんように」と祈ることが素晴らしいと思います。


癒しは救いよりも先に来るものか


癒しというのは聖霊の働きです。私が今まで聞いてきた福音を繋げていくと、福音を聞き、罪の赦しを信じた人が洗礼を受け、聖霊が内住された時に体の癒しを受けることがあると考えられます。
癒し自体は否定しません。

[へブル人への手紙 2:4]

そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

しかし、癒し先にありきの信仰は危険です。
それはなぜか?
答えは簡単です。癒しという目に見えるものを受けて信じるからです。
逆に言うと、癒されなければ信じない、ということです。

[ヨハネの福音書 20:29]

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

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癒されたから信じるというのはご利益宗教と何が違うのでしょう。
見ゆるものではなく、見えないものに頼ることがキリスト信仰なのです。「癒されたから信じます」。イエス様を信じる動機がこれだけなら、復活のキリストを見てから信じたトマスの不信仰な一面と一致してしまうのです。


天の御国へ


私たちには、イエス・キリストを信じる者として希望があります。
それは天の御国に入れることです。
天の御国では、私たちは復活されたイエス様と同じように、聖霊の体を着せられ、病に苦しむことがなくなります。

[ヨハネの黙示録 22:1,2,3,4,5]

御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

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たとえ、病が癒やされなくても、私たちには主なるイエス・キリストがおられます。この方に希望を置く者は誰も失望することはありません。主を信じて、私たちは御国への旅をしましょう。

この生きている地上は苦難の日々です。
ですが、イエス様に甘えに甘えて、傷みを忍耐して、私たちと同じ苦しみを持つ方々の慰めと励ましになりましょう。

きっと、神様が私たちに望んでおられるのは病の癒しの証ではなく、病の床の中で信仰を持ち続ける証なのです。

だから、キリストが十字架の上で私たちと共に苦しんでくださった。私たちに同情出来ないお方ではないという一点を信じて歩んでいこうではありませんか。

[へブル人への手紙 4:15]

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

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