花浅葱 音瑠

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月村手毬の自己認識は「怠け者」である

月村 手毬(つきむら てまり)。かつては中等部のトップユニットアイドルだったが問題を起こしてしまい、次第にユニットを組もうとしなくなっていく。そんな彼女の性格は、ひたすら妥協を許さず前に進む、自身を追い込んでひたすら修練に励む努力家。そんな彼女をなぜ怠け者だと言えるのか、ここに自分の考えを記しておこうと思う。 月村手毬は自分の怠けを許せないデッッッカい見出し。本当に。 ここまで読んでくれた読者の方々の中には、「いや、努力家って書いてんじゃん」と思う人もいるだろう。実際作中で

    • ただ、優しささえあれば。

      ただ、優しさがあればいいと思うんです。御大層な思想の語り合いなんてなくっても、ただ僕が話した美味しいラーメン屋のことを静かに聞いてくれればそれでいいと思うんです。 ODをする人に対して社会の迷惑って言葉じゃなくて、そうしないと生きることすらできなかったんだね、って少しは歩み寄ればいいと思うんです。 別れた後の恋人に悩む誰かに少しの共感と、幸せ以上の何かがあればいいと思うんです。 作ることに疲れてしまった人に渡すものがエナドリじゃなくて休みが渡されたらいいと思うんです。

      • 私は常に正気だよ

        狂気なんて、才能もなんにもなくたってなれる。狂気に陥ることに価値なんてないよ。 「花浅葱 音瑠」という人間には、よく変な人だとか狂人だとかいう評価がつきやすい。まあ奇行のようなものは多いし仕方ないなとは思うけどね。ただね、覚えててほしいのが、花浅葱音瑠はおかしくなんてない。ずっと、ずーーーっと正気のまま。まともな感性を持ちながらそれを意図的にぶっ壊そうとしているだけなのよ。狂いきれれば楽なんだろうけど、 なんでかな おかしくなれなかった。壊そうとする度に常識に囚われていっ

        • 酸素の足りた情熱の話。

          情熱の輝きを、人の心からの熱さを、羨ましいと思うときがある。天にまで届くような煌めきは僕に出すことはきっとできない 燃え尽きているわけじゃなくて、僕は情熱を”安定して出力”できるようになったから。 こんにちは、花浅葱です。今回の記事のタイトル、結構意味わかんないですよね。情熱に酸素って関係あるか?と。酸素ってのは例えっす。長距離走の時の水とか、そういう冷静さを取り戻す、というか…情熱はあるんだけど、それはそれとして冷静さも持っておく、って感じの意味でとらえてくれるとうれしい

        月村手毬の自己認識は「怠け者」である

          病む理由って結局これなんじゃないでしょうか

          現代人、病みすぎ!!!!!!前提:やまないよ私〜って感じの人は病んでる人間のことを理解するっていう読み方をおすすめします。それに、この文は現実を喋ります。刺します 現実で手一杯な人、向き合う気力がもうない人にオススメはしません。 Xを見てると20ツイートに1回くらい病みツイートが出てくる。ゾーニングとか、ブロックとかそういうの貫通して新しいアカウントにも出てくるので本当に病んでる母数が多いんだと思います。鍵垢とか半分くらいのユーザー持ってるんじゃないの? まあ現代だしXだし

          病む理由って結局これなんじゃないでしょうか

          私の「天才についての考え方」についての話。

          一般的に、人は何かを失うことで何かを手に入れるのが通説になっている。お金を失えば物が手に入る。勉強を捨てれば遊びが手に入る。これは常識。しかし、お金や勉強を捨てるのは自分が能動的、つまり意識してしていること。しかし、中には「元から無い箇所が代わりに他の場所が異常に強くなる」というトレードも存在する。例えば目が見えない人は手の感覚が非常に強くなり、点字が読めるようになる。鼻が効かない人は感覚が研ぎ澄まされたりする、などだ。ない部分を補うかのように別の場所がありえない程の急発達を

          私の「天才についての考え方」についての話。

          Dr.レイシオが好きだという話。

          僕は賢い人間、聡い人間が行う自己犠牲が大好きだ。非合理的でどこまでも終わりがなくて報われないことが多い。それでもその選択を取る、愚かな秀才がたまらなく大好きだ。 崩壊スターレイル内に登場するキャラクター、Dr.レイシオ。いわゆる秀才で、バカアホマヌケ(愚鈍)を嫌っている。知恵の神に認められようとしているが、未だ認められていない。 一見すると絶対友達になりたくないタイプなのだが、このキャラについて深堀りしていくにつれて、終わった性格の持ち主でないことが分かっていく。 彼は愚

          Dr.レイシオが好きだという話。

          低温の優しさもある、という話

          本当の意味で人に優しくするってことについて、僕の考え方を書くね。 昔(だいたい小学4年)くらいから、「○○は優しいね」とずっと言われてきた。実際この頃は同級生に優しく寄り添っていたりおせっかいを焼いてたから(今思うと結構おせっかいだなあ…)優しいと言われるのには納得してた。というか優しいって言われるのが生きがいみたいな部分もあったと思う。誰かに頼られるのは大好きだったから。ずっと人に優しく、温かく接したかった。 ただ中学二年生に大きな出来事(ここでは話さないけど)があって

          低温の優しさもある、という話

          花浅葱 音瑠です

          花浅葱 音瑠と申します。はなあさぎねる と読みます 思想をここに出します よろしくね

          花浅葱 音瑠です