見出し画像

桐野夏生「日没」

とにかく暗い作品である。
僕は、人生に肯定的になれるくらい明るい作品も好きだが、今まで忘れられない読書は常に暗い作品を読んだ時に体験するものだった。
何もかもうまくいかず人生に展望のなかった高校2年生で読んだ夏目漱石「こころ」、20代前半の全てを賭けた仕事で燃え尽きた頃に読んだ村上春樹「風の歌を聴け」。
心が塞ぎ込んだ時期に寄り添ってくれるものは限られていると思う。少なくとも、僕の場合は限られてきた。そうした時期に家族や恋人や友達に救われたことはない。こうして明文化すると改めてつらいけれど、紛れもない事実だ。
傍に居てくれたのは、小説や音楽であった。ハッピーエンドはいらない。心が落ちている時に安易に明るい展望を見せられても、到底信用することなどできない。理想的なのは、これから先の態度を保留することを許してくれるような、肯定も否定もしない中立さ。そして、徹底的に落ちている時には、徹底的に暗い作品に救われるのであった。

さて、本作品のタイトルは「日没」である。
「夕日」でも、「斜陽」でもない。これらは、意味するところは近いが、赤焼けた感傷的なイメージがあり、何と言ってもまだ太陽は地平を照らしているのだ。そこに光はある。
しかし、「日没」の意味するところは、夕方を超える先にあり、これから来たる夜の暗さを想起させる。そこには、「夕日」が呑気に連想させるような、河川敷に一台の自転車を停め、雑草生い茂る斜面に腰を降ろした制服の高校生が戯れているような青春は無い。
「日没」の後には「夜」が来る。しかし、「夜」は多義的だ。孤独でズタズタに引き裂かれる「夜」があれば、「夜のピクニック」的な「夜」や、望遠鏡を担いで見えないものを見ようとする「天体観測」のような「夜」もある。「日没」というのは、太陽が沈むその瞬間を意味する言葉であり、光の喪失に焦点を当てた言葉である。
では、「日の入り」はどうであろうか。科学的、天文学的な意味としては「日没」と同じであろう。しかし、そこは日本語の深さ、読み手の印象はかなり異なる。「没する」と書かれているからには、日はもう永遠に昇ってこないかもしれないと、覚悟を決めなければならないような感じがする。

本作品は、読者の告発により、自身の作品が社会的に不適切との認定を受けた作家が、謎の政府組織が運営する療養所で監禁生活を過ごす話である。近頃の日本を思わせる設定だ。監禁の根拠となる法令の該当箇所は明示されず、作品の一部分を切り取った非論理的な断定により咎められ、施設の人間のコミュニケーションは冷笑的である。現代日本において日が没する兆候は様々あり、これらが更に進行した世界はどのようなものであるかを表現した作品である。昼のシーンに存在する光は、断崖絶壁の眼下に見える荒波の白さでもって、精神病棟を思わせる無機質な廊下に差し込み、干涸びた鯖の皮を照らすばかりである。

作中登場する、文学を理解する姿勢を持たない施設の人間は「タイトルなんて、途中で変えればいいじゃないですか。中身と関係ないでしょう」と言う。これに主人公は毅然として反論する。

「私たちにはタイトルは大事なんです。いわば、作品のコンセプトですから」
「たかがタイトル、されどタイトルでしょう」

主人公の作家は戦う。戦う対象は施設の者たちであり、政府組織であり、告発した読者であり、そうした人々が蔓延る世界全体であり、それを作り出す大いなる何かである。徹底的に戦う。曰く、人間の心は自由だから戦うのだ。それは主人公の作家としての矜持であり、作者の桐野夏生の作家としての堂々たる宣言だ。覚悟の作品である。そこに光はあるのか。タイトルがタイトルである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?