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桜井章一の教え

無敵の雀鬼-二十年間不敗

 「雀鬼」。そのような人に対して、世間はどのような評価をするだろうか。あまりいい評価はされないのかもしれない。一般的には、いい職業に就いているとか、金銭的に成功しているとか、そのようなことで高い評価がされる。

 しかし、世間の評価はさておき、桜井章一には不思議なオーラが漂っている。この局は〇〇が勝つ。待ち(当たり牌)は△△。このような予測が次々と的中する。言動が神がかっている。そして、背筋がすっと立っている。本能的にただものではないと感じる。

「動じるな。ぶれるな。求めるべきは、安住ではなく試練である。」

 桜井章一の言葉である。人は誰でも、少なくとも多くの人が、試練ではなく安住を求める。この世の中は、厳しい場所だ。つらいこと、大変なことが多い。だからか分からないが、人は一般的に安住を求める。私もそうだ。

 「求めるべきは、安住ではなく試練である」。その言葉の意味は、困難の中に身を置き、試練を経験することで自分を成長させろ。そのようなことではないかと思う。「艱難汝を玉にす」ということではないか。

「負けているなら勝ちを目指せ。勝っているなら大勝を目指せ。」

 正確な言い回しは忘れてしまったけれど、このような趣旨の言葉も記憶に残っている。勝ちがほぼ確定すると、その勝ちを守ろうとしがちだ。それを戒めている。

 そもそも勝敗は下駄をはくまで分からない。にもかかわらず、「勝った」と思う。そのような不正確な判断を戒めているのかもしれない。

 しかし、「勝っているなら大勝を目指せ」という言葉は、安易な道を選択せず、困難な道を選択せよ、ということだと思う。つまり、上記の「求めるべきは試練である」と同義ではないか。

困難な道を選択して得られるものは

 何だろう。やはり人間的な成長だろうか。

 生きていれば、ときに試練は訪れる。そのようなときには当然、意気消沈する。そして、考える。

 試練は誰にでも訪れる。四苦八苦というが、これは人類共通の苦である。自分だけが苦しむわけではない。他者も同様に苦しむ。そうした理解から、他者に対する慈愛が生まれるのか。苦しいのは自分だけではない。

 雀鬼は厳しいが、面倒見がいい。自分本位の厳しさ(自分の利を追及するための他者に対する厳しさ)ではなく、厳しさの中に愛がある。そのように見える。やはり「艱難汝を玉にす」るから、あえて困難な道を選べということでしょうか。

困難・試練が幸福への道筋

 困難・試練を経験することにより、自分や他者に対する慈愛・慈悲が生まれる。つまり、困難・試練は幸福への道筋。逆説のようだけど、そういうことなのかもしれません。

 私が幸せでありますように。私の悩み・苦しみがなくなりますように。私の願いがかなえられますように。私に悟りの光が現れますように。・・・
 私の嫌いな人々が幸せでありますように。私の嫌いな人々の悩み・苦しみがなくなりますように。私の嫌いな人々の願うことがかなえられますように。私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように。・・・・・
(慈悲の瞑想より)

#大切にしている教え

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