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恋愛とは性欲を原材料とする文化的加工物である:アセクシュアルの恋愛考察

前の記事でアセクシュアル自身によるアセクシュアル論というのを書いたから、今回はアロマンティック・アセクシュアルによる恋愛観を書いていきたいと思う。

結論として、そもそも人間に「恋愛感情」自体は存在しないが、性欲を美しく装飾することで性欲を文化化し、性欲が文化化したものを「恋愛」と呼ぶのではないか、という説をとなえたいのだ。 

これは、恋愛を否定するNOTEの記事を読んで直観的に思ったことで、実際にはもっと恋愛は複雑なものなのだと思うが、メモ書き程度のものなので、ご了承願いたい。

本題に入ろう。
先ほど私は恋愛感情は存在しないが、性欲の加工物としての恋愛感情は存在する、と説を唱えた。このことを分かりやすく他者に伝えるために、1つ例を出した。

性欲は川から釣ってきたそのままの鮭であり、恋愛感情とはサーモンのカルパッチョなのである。

???と思われた方が多いと思う。説明が下手で申し訳ない。もっと詳しくおつたえしよう。

サーモンの栄養素を食べるだけなら、釣ったサーモンを適当にさばくか、串刺しにして火で焼けばいい。これは原始的な鮭の食し方だ。しかし、人間は同じ栄養素でも「いかにおいしく」「いかに美しく」料理するかに拘る、いわば美の創造主としての側面を持つ。

カルパッチョなんぞにしたところで、手間もかかるし、むしろ脂質も過多になり栄養バランス的にも最適解ではない。しかし人間は何故鮭をカルパッチョにするのだろうか?

それは人間がご飯であればよりおいしく美しく食べたいと思うからであり、その非合理的ながら文化的な行いによって、食事はただの栄養補給という生存目的から、食文化という1つの文化を形成することになる。

恋愛を性欲のみで片づけてしまう人間は、鮭の丸焼きとサーモンのカルパッチョを同一視する、文明・文化に対して理解を示せない人間なのではないか?

「あなただけ」「一生の愛を誓う」「お前以外見えないよ」「あなたを一生支えていきたい」

これら恋愛にまつわる「嘘」は、性欲を恋愛という文化物に美しく昇華させるためのレトリックなのだ。

「多分浮気しないけど、確証はもてない」とか「離婚する場合だってあるんだからそうなった場合の財産分与のやり方をまず考えておこうか」とか、「あなたお金持ってるから結婚したけど、もしなかったら無理ね」だとか。そんなこと言う必要はないのだ。

そんなの、サーモンのカルパッチョを作ろうとしている相手に対して、「同量のタンパク質なんだから、そんな凝った料理する意味ある?」と水を差しているようなものだ。そんな真実、おいしいカルパッチョを作るのに必要ないでしょ?

そしてこのような恋愛文化になじみやすいタイプの人間は、幼少期からこれらのスキルを身に着け、そしてあまりに自然に身に着けたスキルであるのでそれを生来のスキルであると勘違いしているのではないか。だから恋愛というものは人間の本能であり、性欲とは引き離された聖なるものであると勘違いする。

だから、性欲と恋愛の違いは本質的には同じで、恋愛はただ性欲を(運よく)美しく装飾できた場合に成立するのではないか、と私は考える。

恋愛できない私のような人間は、性欲を特定の誰かに向けるほど他人に興味を持てず、かつ他人とコミュニケーションがとれない。仮に性欲を誰か特定の個人に向けることに成功したとしても、それを性欲以上のなにがしかの美しいものに昇華するほど、詩人的・芸術的なセンスを持ち合わせていないということではないだろうか。



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