第一次世界大戦の原因

質問です。みなさんは彼を知っていますね。誰でしたか?

正解はナポレオンです。ナポレオンによって20年間、ヨーロッパ中は混乱していました。その20年で戦死者200万人と言われています。すごく多いでしょ?しかし、たった4年で戦闘員の戦死者900万人、非戦闘員の死者1000万人、負傷者2200万人という大戦争があったことをご存知でしょうか。 第一次世界大戦です。今日はこの第一次世界大戦の原因、経過、結果について学習していきましょう。 まず、これまでの復習をしていきます。時代はさかのぼり、彼を知っていますね。   

ビスマルクですね。彼が鉄血宰相としてドイツ帝国を率いていた時代、ヨーロッパで大きな戦争は起きていましたか? 
起きていませんね。その理由を覚えていますか?

その理由はこちら☝。ビスマルクはフランスの孤立化&ヨーロッパの平和の安定のために、あらゆる国とうまく同盟を組んでいた。このため、戦争は起きずにすんでいたんだ。 しかし、どうだ。その後どうなった?

ヴィルヘルム2世

ヴィルヘルム2世という若き皇帝(当時29歳)にビスマルクは引退させられ、これまでビスマルクが作り上げた「守り」のドイツはすべて打ち壊されたよね。「攻め」のドイツが誕生してしまったわけだ。 その後の国際関係を見てみよう。

☝各国の思惑の末、このような国際関係が出来上がった。ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟 VS イギリス・フランス・ロシアの三国協商 

あのロシアの南下をずっと拒んでいたイギリスがロシアと手を組むんだぜ?この時のドイツの急成長は本当に怖かったんだろうね。 さあ、いよいよ第一次世界大戦の舞台が整った。あとは火をつけるだけだ。 火がついたのはこの場所。

ここをバルカン半島といいます。ここの場所、ロシアが狙っていました。なんででしょう? 

日露戦争に負けたロシアは「東アジアはダメだ。またヨーロッパの方から凍らない港を取りに行こう!」そう考えていたからだ。 実は、ドイツもここを狙っていたんだ。なんででしょう?

☝ベルリン・イスタンブール・バグダードを結ぶバグダード鉄道の建設を考えていたからだ。

 つまり、どっち(ドイツとロシア)が先にバルカン半島に手をだすのかといった状態で、時間の問題であった。   
さきに手を出したのはドイツ側チーム(三国同盟)のオーストリア。1908年にオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したんだ。(場所は教科書で確認してね)

これはロシアとしてはまずい。だからすぐさまロシアも対抗する。

ロシア:「おーい、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシア!君たちは僕が支援するから軍事同盟結びなさい!今だったらざこオスマンから独立できるチャンスだよー!」とバルカン同盟という軍事同盟を結ばせた。

(※☝ロシアの本当の狙いは、オーストリアのバルカン進出を阻止すること) このようにいつ戦争が起きてもいい状態だったんだ。こうした状況下で、1914年6月28日、オーストリアの皇太子がボスニアの首都サラエボで、セルビア人の学生に暗殺されるサラエボ事件が起きたんだ。

バルカン半島にはオーストリアのことをよく思っていない人たち(スラブ系民族)もたくさんいた。オーストリアのボスニア併合がどうしても許せなかったんだろう。 

とはいっても、国を象徴する皇太子が暗殺されたのは事実。
オーストリアとしても絶対に許してはいけない。
事件から一か月後の7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。
 困ったセルビアは「親分」のロシアに救援を要請。
続いて、ロシアがオーストリアに宣戦布告。
ドイツもこの機会に英・仏・露の三国を破り、地位を拡大させようと考えていたので、オーストリアの要請を承諾する。
こういった流れで一週間後にはイギリス、フランスも参戦することとなる。 

わが国日本も例外ではないんだ。日本は協商国(イギリス、フランス、ロシア)のチームとして第一次世界大戦に参戦することになる。その理由はなんででしょう?

ヒントは☝の風刺画。日英同盟だ。
つまり、日本は日英同盟を口実に1914年8月、第一次世界大戦に参戦した。巻き込まれたんじゃない。自ら参戦したんだ。
その狙いは、中国の内部に勢力範囲を拡大したかったから。
考えてみればわかると思う。
列強たちはヨーロッパに集中している。
日本にとってこれほどまでに絶好の機会はないからね。
 その後日本は、1915年に中国に対して、二十一カ条の要求をつけつける。
聞いたことある単語だね。これがまあ、なかなか強引だよ。 


☝要求しまくりだよね。最後の文「中国の中央政府・・・」についてはイギリスとアメリカの猛反発にあってひっこめたんだけど、それ以外は「2日で決めろ」と通告しているからね。
相当強引で急いでたんじゃないかな。
その後(現在は分からないが)中国では現二十一カ条を認めさせられた5月9日を「国恥記念日」として、抗議運動を行っていたという。

次回は第一次世界大戦の経過を見ていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?