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小説書いてみました。第二話

あれからというもの、Aはうまく眠れない日が続いた。寝るのが怖くなったわけではなく、夢が自分のアクセスを拒絶しているようなそんな感じがする。ねれないでいると余計に頭がさえていろんなことを深く考えてしまう。「彼は、一体何者なのか。」考え事の終着点は前回訪れたおじさん。あのおじさんは何物で、何が目的なのか、過去に時計を戻せるのなら思う存分に問い詰めるだろう。一時間一緒にいても尽きないほどの疑問で頭はパンク寸前だ。自分は、無神論者だが神のような人間の理解の範疇を逸脱した何かを疑ってしまう。窓辺から、朝日が漏れ出し鳥たちは新しい朝に、産声をあげる。鳥たちの鳴き声を聞き朝だと精神的にも理解をして憂鬱な気分で、心に余白はもうない。一日休むと次の日の体は今までの日常に戻ることを拒絶する。それは、人間もまた理性の効かない野生動物の端くれであるということを思わせてくれる。それを、必死に抑え込むのが自分のメンタルの役目である。怠い体を、起こしシャワーを浴び制服に着替えて、戦士で溢れかえる電車に体を細くして押し入れ進む電車に身をゆだねる。またいつもと同じような日常が始まる。バスに腰をかけ、音楽の再生ボタンをタップすると、‘‘民衆の歌‘‘が流れた。その心強く自分の闘争心を煽られて自然と全身から鳥肌が立ってしまう。考えてみればすごいことだ。当時の自分たちと同じぐらい若い少年少女が当時の政治に不満や疑問をもちこれから生まれてくる生命に少しでも良い生活をと命を顧みず、武器を取り戦ったのだ。勇敢で慈悲の心をもつ人達なのだろう。過去の英雄たちの行動のおかげで今の生活を送れているのだと考えるとなんとも感慨深い。しかしながら、心のどこかでそんな生活を求めてしまっている自分がいたるのも事実だ。当時の人からしたら、ものすごい贅沢を言っていると怒られ失望されてもおかしくなんかない。しかし、人間らしく生きていたようにも自分の目には映ってしまう。終身雇用といった言葉がある通り多くの人は椅子に座り、パソコンと向き合い会社のために身を投じるだろう。はたして、人間らしく生きているといえるのだろうか。よっぽど、自らの考えで政治などに疑問を抱き同志を集め行動を起こした彼らの方が人間味がある感じがする。きっと、先人たちの命をかけた行動のおかげで、こんな生意気が言えるようになったのだろう。曲が終わり、広告がながれはじめると運転手の「~高校前」という声が聞こえ、我に返りバスを降りる。風が強く、前髪が崩れそうになりそっと下を向く。もう二月だというのに、風がとても冷たい口から入ってきた空気は、のどを通り肺へと体の臓器のほとんどを冷やしていった。校舎に入ると、温かい空気で充満されていて安堵した。階段を足早に登り、席に着くと荷物を置き、いつもの儀式を行う。気合を入れて、クラスに入り席に座るとすぐに鐘がなり日常の開始を知らせる。最初は、だるくてしんどかった授業も時間とともに終わりへと近づく。早く帰りたいと思っていると、こんな馬鹿なことを考えているうちにも自分の寿命は一分一分消えているのだなとぼんやりと考えてしまった。それは、実に残酷だが抗う手段がなく運命に親しい存在なのだ。運命であり、高校に行くことは今の社会では必須の条件である。自分の人生においての使命は何だろうか。この鎖は、確かに自分の社会的地位は上げてくれるツールなのかもしれないが、まだ見つかってもいない使命に必要なのかもわからない。こうして、どんどん使命を見つけるというのを後回しにしていると、生きる意味を失うのではないかと無性に不安になる。抗えば、この鎖はとれるかもしれないが、抗い方を知らない。無知な自分には適しているのかもしれない。鐘がなり、また一時間が過ぎたことを知らせる。身支度をして学校を出ると、曇りがかった空からは月が顔を見せる。帰りのこの夜の感じがすごく好きだ。誰もおらず、車と自分の足だけが音を作り澄んだ空気を肌で感じ、信号機の赤色がほんのりと地面を照らす。五感で、一人だけのこの空間を堪能したらバスを待ち、訪れたバスに足早に乗り込む。バスの中は、ほんのりと車内灯が乗客の顔を照らし外の街灯の光とまじりあい車内はロマンチックな空気に包まれる。ロマンチックな空気に浸っているとバスは駅に着き人が降りる。「ありがとう」という人もいれば、無表情で降りるものもいる。社会の残酷さに打ちひしがれ希望を心の暗闇に灯しても幾度となく消され、火を灯すことすらもめんどくさいようなそんな顔に見えなくもない。自分が降りる番になり、どちらを選ぶか迷った。「ありがとう」を言うか無言のままスマホに目をやり、外に出るか。理性的に考えるのなら、「ありがとう」と言う方が良いだろう。しかし、前の人が無言で出るとその理性とは別の本性が理性を屈服し、恥ずかしさなどの気持ちであふれそうになる。迷ったときに、頭に祖母の顔が浮かんできて何も言わなかったが心では「慈悲と愛を忘れるな」という教えを思い出させる。そうだ、この運転手は何か辛いことがあったとするならば、このありがとうの一言でどれだけ心が救われるだろうか。その考えが出てくると、心の中が優しさと愛で満たされるのが分かった。「ありがとうございました」と大きな声で言い、バスを出ると運転手の顔は確かに口角が上がり微笑んでいた。幸せで心が満たされるのが分かる。これこそが、幸せなのだろうとじんわりと心で広がった。人のために時間を使いその人のために行動するというのは、人間そのものがもつ心の奥底を幸せで満たし、自然と口角が上げる。駅に入ると、ストリートピアノがあり普段は帰る時間に弾いている人は見かけないのだが、今日は優しそうな三十代ぐらいといった男の人が、ピアノの前に座り弾こうとしていた。その光景に、僕は迷うことなくピアノの横にたち彼が弾くのをまった。彼のすらりとして少し骨骨しい指が優しく、歌うように鍵盤を触る。優しい音色がそっと心の中に入り、話しかけてくる。その音色は、優しくも情熱的で救うように、そっと包んでくれるそんな愛を感じた。汚く複雑な愛ではなく純粋な愛で本能的に心が受け入れてしまう。さすがリストだ。なんと美しい旋律なのだろうか「愛の夢 第三番」一度聞いただけで、聞く人を虜にしてしまう。音楽というのは、素晴らしい。自分を生まれた時の姿にしてくれる。本能が音楽を作り、求めるのだ。演奏が終わると心の底から拍手をした。涙ぐんだ目をした顔はどんなに醜いかと考えたが、それでも本能には逆らえなかった。彼は指だけでなく見た目もすらりとしていて弾き終わるとお辞儀をして帽子を被り、颯爽と歩いていきその姿もまた優雅で美しい。男ながら見とれてしまった。彼の音には、汚さのない純粋の音色で、間違いなく自分の足を彼の元へ運んでしまうだろうと、Aは確信した。

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