時間のかかる終活4

(前回より)
20代の頃に所属していた吹奏楽団で広報係になった私は、それまでの情報をメインにした会報を大幅リニューアルして、情報だけでなく、団員のエッセイを載せることに血道を上げた。その結果、団員のエッセイがメインとなる会報に様変わりした。しかし私は3年弱で広報係を退任し、個人誌の発行に踏み切ったのである。

個人誌の創刊号は1998年12月に発行されているから、時系列でいうと私が会報の編集から降りたあとということになる。
個人誌のタイトルを『Micamy』とした。これは「ミカミー」と読ませ、「アムラー」とか「シノラー」と同様のイントネーションで発音する。つまりタイトルからして完全に個人誌なのである。
当時、どういう心境でこの個人誌を創刊しようと考えたのか?シャレで作って、読んでくれそうな団員に送りつけようと考えたと記憶している。
体裁は、団員に向けた会報とほぼ同じで、B4版の紙を二つ折りにして見開きで読めるような形にした。
創刊号は、
「ペンネームについて考える」
「漢字について考える」
「自意識過剰について考える」
「エスカレーターについて考える」
の4本のエッセイを載せている。我ながら読み返すとバカバカしくて恥ずかしい。これを印刷して10人弱の団員に一方的に郵送したのだからどうかしている。
ドン引きされるかと思ったら、思わぬ反響を呼び、5人ほどの人たちから創刊号の感想文が届いた。その感想がどれもあまりに面白かったので、2号を作ることにして、その中に「読者からの感想」としてすべて紹介した。
1999年2月に発行した2号は、
「古色の看板」
「書物の因縁」
の2本のエッセイを掲載している。
1996年6月に3号を発行し、
「恐怖の一人暮らし」
「不気味な看板」
「踏みにじられた文明」
の3本のエッセイを掲載した。そして、個人誌は、この3号をもって廃刊とした。「かすとり雑誌」に憧れていたので、当初から「3号出したらやめる」と決めていたのである。
ただしその後、1999年の9月と11月に復活をしている。この2回は、団員同士の結婚式が2組あったときで、いずれの結婚式にも私がスピーチをさせられた。そのほかに何かいいプレゼントはないかと思い、『Micamy』寿号を2組のカップルのためだけに作って、エッセイのプレゼントをしたのである。我ながらバカなことをしたと思ったが、数年前にそのうちの一組の夫婦から「いまでも大切にとっておいてあります」と連絡があった。

私はきっと、お手製の「ミニコミ誌」が好きなんだと思う。いま、不思議な縁で、田上正子さんが編集するガリ版刷りのミニコミ誌「あめつうしん」の会員になっている。初めて送られてきたとき、これだ!と思った。私がやりたいのはこういうミニコミ誌だ!と。
ほかにも、山形に住んでいた頃にお世話になった老先生が作っているミニコミ誌の会員になっている。B4版の紙を二つ折りにして見開きで読めるようにした体裁。ワープロソフト「一太郎」で作成した会報。かつて私が作った会報と同じだ。読者はたぶん10人くらいだと思うが、私はそこに3回ほどエッセイを投稿している。
もし私に余生というものがあるとしたら、最後は、好きな人たちからエッセイを募って、限られた人たちに向けたミニコミ誌を作りたいと思う。そこが最後の居場所になるだろう。(完)

…これらの会報は捨てられないので、とっておくことにする。これではいつまでたっても終活が終わらない。(終活継続中)



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