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あとで読む・第47回・内田樹『小田嶋隆と対話する』(イーストプレス、2024年)

Twitterといちばん相性がいいのはつぶやきシローではないだろうか。なぜなら、Twitterが生まれるはるか以前からツイート芸をしていたから。

…というツイートを考えてみたのだがどうだろう。実際、つぶやきシローのTwitterは舞台芸そのままのネタだけを禁欲的につぶやいている。「脳のおなら」というTwitterの本来の使い方を遵守しているのがつぶやきシローなのである。
もう1人、小田嶋隆さんもまたTwitter芸の名手である。140字の中にいかに自らのこねくり回した表現を入れ込むか。それをひと突きで読者にインパクトを与えたのが、小田嶋さんのTwitterだった。
それは、小田嶋隆著・武田砂鉄撰『災間の唄』(サイゾー、2020年)を読めばよくわかる。私は自分ではTwitterをやらないが、小田嶋さんのTwitterを見ることだけは楽しみだった。それが1冊にまとまったのがこの本だった。
この本を刊行した記念のトークイベント(2020年11月)がいまもYouTubeで公開されているが、この中でたしか小田嶋さんは、
「横書きで書かれたTwitterが縦書きに変わっただけでずいぶんありがたみが増す。芥川龍之介の『侏儒の言葉』みたいでしょう」
と言っていて、たしかにそうだと笑った。もはやこれはわざわざ口にするまでもない「脳のおなら」ではない。『侏儒の言葉』である。

内田樹さんの『小田嶋隆と対話する』は、『災間の唄』以降の小田嶋さんのツイートをまとめた、いわば続編である。そう思って2冊をくらべてみると、中身の体裁が同じである。それもそのはずで、穂原俊二さんという同一の編集者によって編まれたからである。しかも、『災間の唄』は2020年の8月29日までのツイートを対象としているのに対し、『小田嶋隆と対話する』は2020年9月1日以降、2022年6月に亡くなる直前の最後のツイートまでを対象としている。2つの書は連続する関係にあるのだ。
しかしながらこの2つの書の方向性はずいぶん異なる。前者は、元編集者である武田砂鉄さんらしく、各年ごとの解説がはじめに来て、あとは小田嶋さんのツイートをひたすら並べていく。それに対して後者は、ツイートを並べるところは同じだが、要所要所で、内田さんが小田嶋さんのツイートにリプライする形で解説を書いていく。つまり後者の方が饒舌なのである。内田さんは饒舌な研究者なのだ。
一例を挙げると、小田嶋さんの

「敬愛する人間の話を面白く聴くために身につけている知識を教養と呼ぶ、という定義はどうだろうか。でもまあ、大好きな人間の話でなくても、世界を面白がるための知識は、おしなべて「教養」と呼んで差し支えないのだろうな」(66頁)

というツイートに対して、内田さんは、

「『教養』についてはいろいろな定義があるが、小田嶋さんのこの定義はなかなか奥行きがある。というのは、「人の話を面白く聴く」ためには、適切なタイミングで質問をしなければいけないからである。つまり、「自分が何を知らないのか、何を知りたく思っているのか」を言語化できなければ対話は続けられない。でも、自分の無知を言語化できる能力というのは、よく考えるとかなり卓越した知的能力である。小田嶋さんはその能力を「教養」と呼んだ。知識や情報の「備蓄」ではなく、対話を前に進める「推力」のことをそう呼んだ。これは卓見だと思う」

と、小田嶋さんのツイートの意味を開いている。内田さんの文体はいかにも研究者の文体だ。その対比がたまらなく面白いと感じるのは、私だけだろうか?いずれにしても私は、「敬愛する人間の話を面白く聴くために身につけている知識を教養と呼ぶ」という小田嶋さんの定義に痺れている。内田さんもやはりそこに痺れたのだろう。

少しずつ読み進めているが、次第に「死」に近づいていくツイートを追っていったら、また喪失感に苛まれるかもしれない。

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