あとで読んだ・第37回(後編)・土門蘭『死ぬまで生きる日記』(生きのびるブックス、2023年)

読み終わって、何ともいえず内からこみ上げてくるものがあった。気がつくと涙を拭いていた。
自分とは関係のない話だと思っていた。帯には「『楽しい』や『嬉しい』という感情は味わえるのに、どうして『死にたい』と思うんだろう?カウンセラーとの対話を通して、ままならない自己を見つめた記録」とあり、私はこれまで「死にたい」と思ったことはなかったし、「カウンセラー」とも無縁に生きてきた。そんな私がはたして共感をもって読むことができるだろうか、といささか不安になりながら読み始めた。最終的には、『戦争と五人の女』の読後感と同じような衝撃を受けた。結局のところ、土門蘭さんの筆力にまんまとやられてしまったのだ。
土門蘭さんとカウンセラーの「本田さん」とのカウンセリングの詳細な記録、といってしまえばそれまでだが、この本はどうとらえたらいいのかわからない。エッセイ?ノンフィクション?というのともちょっと違う。書かれていることのほとんどが事実であるとしても、小説として読むことにまったく違和感がない。
この本もまた、『戦争と五人の女』を読んだときに感じたのと同じように、「ミステリー」である。二人が対話していく中で、「死にたい」と思う感情の真の意味が説き明かされていく。もちろん、完全に解決したわけではないけれど、その核心に迫っていくさまは、ミステリーを読み進めていくような興奮を覚えた。
この本をそのまま演劇にしてみたらどうだろう、という思いがわいてきた。二人の会話劇である。会話を続けていく中で、ともに答えを見つけていく。私の貧弱な観劇体験の中で、三谷幸喜脚本の傑作舞台「笑の大学」のようなイメージが思い浮かぶ。もともと縁もゆかりもない二人が、対話を通じて心を通じ合わせていくが、やがて別れが訪れる、という内容で、設定はまったく異なるが、読後に浮かんだのがなぜかこの演劇だった。きっと引き込まれる二人芝居になると勝手に想像している。
「死にたい」という感情が発作のようにあらわれる、というのは私とは無縁の感情だと思っていたが、そうとも言えなかった。昨年(2023年)の夏くらいからだっただろうか、不意に何かマイナスの感情にとらわれ、動悸が激しくなる、という小さな発作のようなものに悩まされた。頭の中に一瞬だけ、何かの記憶が横切る。それが原因で心臓が高鳴るのである。ふつうに人と会話をしているときなど、所構わず不意にその発作が訪れる。だがそれはほんの一時的なもので、数分も経てば元に戻る。そのときに頭の中を横切った記憶というのがどんなものであったのか、必死に思い出そうとしても思い出せない。ただ、以前に経験したことのあることで、それにともなうマイナスの感情であることは間違いないのである。
ところがその感情の発作も数か月間だけのことで、いまではまったく起こらない。これはどういうわけなのか?不思議な現象だったが、ひょっとしてこれは誰にでも起こりうる感情の動きなのかもしれない、と、土門さんが抱えている感情を自分事としてとらえることができたのである。

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