読書メモ・山田太一『終りに見た街』(小学館文庫、2013年、初出1981年)
私が山田太一さんの小説『終りに見た街』の文庫本を買った場所は明確に覚えている。2019年10月、とつぜん時空の裂け目からあらわれた「タイムトラベル専門書店」が、期間限定でうちの近所に店舗をかまえたことを知り、そこで手に入れたのである。その書店は、店名の通り、タイムトラベルに関する本を専門に取り扱っていて、店舗に入ると、私の知らないタイムトラベル本が無数に並べられていた。そのほとんどは、私の知らない著者の本ばかりだったのだが、唯一知っている著者が山田太一さんで、私は迷うことなく山田太一さんの『終りに見た街』の文庫本を手にとったのである。…嘘のような本当の話である。
といっても、山田太一さんの小説は『異人たちとの夏』くらいしか読んだことがなく、タイムトラベルに正面から取り組んだ小説を出されていたことを、この書店のおかげで初めて知ったのである。もっとも、考えてみれば『異人たちとの夏』も時空を超えたタイムトラベル小説だと言えなくもない。
私はこの本を読んで衝撃を受けた。とくに小説の最後の場面を読んだときの衝撃は忘れられない。山田太一さんの小説なのであたりまえのことなのだが、読みながら映像が浮かんできて、これ、いつか映像化してくれないかなあと願ったのだった。ところが後に調べてみると、すでに1982年と2005年の2回、山田太一さん自ら脚本を担当したドラマが放映されていて、そうだよな、私ごときが映像化を希望するくらいだから、映像化されるのはあたりまえだよな、と納得する一方、その2つの映像化作品を観てみたいという思いに駆られたのだった。
そうしたところ、2024年9月21日に、3回目の映像化作品がテレビ朝日で放映されることを知った。脚本は山田太一さんご本人ではなく、宮藤官九郎(クドカン)さんである。山田太一さんとクドカンさんは、私にとってはこれ以上にない組み合わせで、この作品を観ないことはあり得ない。
クドカンさんは、時代設定を2024年現在に移し、ストーリーを展開している。原作の時代設定を移すのはいかがなものかという批判も出てくるのかもしれないが、そもそも山田太一さんの原作小説も、小学館文庫での復刊にあたって時代設定を復刊当時の「現在」に書き換えているし、2005年のドラマも、山田さんは現代版の脚本を再執筆しているという。つまりこれは山田太一さんの思いを継いでいるのだ。
原作小説の時代設定を思い切って現代に移した、というクドカンさんの脚本作品で思い起こされるのは、2023年に放映された山本周五郎原作のドラマ『季節のない街』である。舞台を現代に置き換えても、ある工夫をすることで、原作小説の雰囲気を決して壊すことはなかった。後に原作小説を読み直してみたが、内容についても原作とほぼ変わらないことにあらためて気づいた。
今回の『終りに見た街』も、ドラマを観た後に原作小説を読み直して同じことを感じた。設定を現代としたことで、クドカンさんが現代に合わせたオリジナルな「仕掛け」を設定しているが、その仕掛けは原作の雰囲気を損なわないように工夫されていた。それでいて物語の進行や俳優のセリフは、原作小説に準じているところがほとんどで、原作を尊重していることがよくわかる。きわめてあたりまえのことだが、原作ありきの脚本をクドカンさんが手がけるときは、原作小説を徹底的に読み込んでその芯の部分をとらえた上でクドカン流の脚本を仕上げるという意味において、私はそういうタイプの作品をどんどん観たいと思っている。
…クドカンさんの話ばかりになってしまったが、最後に蛇足ながら付け加えると、山田太一さんは、時代の空気というものをもっとも嫌っていたのではないかと思う。いまでは「同調圧力」という言葉が一般化しているが、そんな言葉が流行る以前から、山田さんは同調圧力に抗していたのである。それは山田さんが若いころに脚本を担当した渥美清主演のドラマ『泣いてたまるか』の中の「ああ軍歌」(1967年)という作品からもわかる。この本も、戦争末期にタイムスリップした主人公が最後の最後まで必死に抵抗したのは、この国の社会にはびこる同調圧力に対してだったのではないだろうか。