あとで読む・第14回・チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』(斎藤真理子訳、河出書房新社、2016年)

本に関する私の情報は、ほとんどラジオ番組から得ているといってよい。通勤途中に毎日ラジオを聞いていると、番組の中でさまざまな本が紹介される。しかしもちろん全部を買うことはできない。自分のアンテナに引っかかったものだけを買うのだが、それでも結局は積ん読になってしまう。

韓国文学翻訳家の斎藤真理子さんの名を知ったのも、TBSラジオの荻上チキさんの番組だった。たしか斎藤真理子さんが翻訳を手がけたチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房、2018年)を出されたばかりのころだったと思うが、韓国のフェミニズム小説や論説を特集していたと思う。そのときの斎藤さんのお話、というより、プレゼンテーションがあまりにも面白くて、『82年~』を買わずにはいられなかった。で、それが私にとってのジェンダーを考える扉となったのである。ちょうど同じ時期に職場の同僚から一緒にジェンダー史の共同研究をやりませんかというお誘いがあり、これも何かの縁だと思い、ジェンダーの勉強を少しずつ始めたのであった。その経緯は、職場の広報誌である『REKIHAKU』の創刊号に書いたのだが、いま読み返すと、顔から火が出るほど、ジェンダーに対する理解の浅さが露呈されている。もちろん、いま現在もその歩みはのろい。
ジェンダー史研究事始(三上 喜孝)|REKIHAKU:歴史と文化への好奇心をひらく (note.com)
とにかくそれからは、私にとっての韓国文学は斎藤真理子さんを中心に回り出した。翻訳書がたくさんあったので迷ったが、手に取ったチョン・セラン『フィフティー・ピープル』は、多くの登場人物が交錯する極上の連作小説だった。

いちど書店のトークイベントに参加して、ミーハーな私はご本人から直接『韓国文学の中心にあるもの』(イーストプレス、2022年)にサインをもらった。この本は私にとっての羅針盤である。そして最近(2023年)は、読書エッセイをまとめた著書『本の栞にぶら下がる』(岩波書店、2023年)と、くぼたのぞみさんとの往復書簡をまとめた『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社、2023年)がほぼ同じ時期に刊行され、同時並行的に読んでいる。翻訳家が名文家である理論は、ここでも生きている。

で、実は私にとっての懸案事項というのは、チョ・セヒの『こびとが打ち上げた小さなボール』なのである。私は2017年に大病を患い、手術して退院したあともしばらくは家で療養した。そのときに、何もすることがないので古い韓国映画のDVDを見まくったのだが、その中の一つが、イ・ウォンセ監督の映画『こびとが打ち上げた小さなボール』(1981年公開)だった。韓国の経済発展の影で切り捨てられる人たちの姿を描いた映画で、主演は若きアン・ソンギ。それに『チャングムの誓い』でよく見たクム・ボラも娘役で出演していた。

映画があまりに印象が強かったので、原作を読んでみたいと思うのは人情というものである。原作小説の翻訳は、これまた斎藤真理子さん!これは読まない手はないと思い買ったのだが、あいかわらず、敷居が高そうな文学作品と勝手に思い込む癖、というか病に取り憑かれ、なかなか読み始める勇気がない。いったい私はどういう了見なのだ?

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