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37 日本の神々に対する理解と交流(セオリツヒメ編)

今回は交流編の第4回、セオリツヒメ編。

皆さんの期待する内容というわけにはいかないが、大事な内容なので読んでほしい。

<セオリツヒメをとりまく状況>


ネット記事をみると、セオリツヒメについていろいろな説が実しやかに書かれている。

「水に関する神様は全てセオリツヒメ」

「龍神様もセオリツヒメ」

「◯◯権現もセオリツヒメ」

「この神社の表向きの御祭神は◯◯だけど実はセオリツヒメ」

等々、根拠が曖昧な記事があまりにも多い。

しかも「謎が多いセオリツヒメはミステリアスな神、でもそれが魅力」と評され、信憑性に欠ける記事がさらに拡散されている。

私はそれを真に受けて失敗したことがあった。

ある記事でセオリツヒメに会えると紹介されていた神社に行ってみた。

だがその神社は摂社末社も含めて御由緒を何度読んでもセオリツヒメの名は一切なく、全く祀られていなかった。

その記事は投稿者が

「その神社でセオリツヒメを感じたから」

ただそれだけの理由で記事を書いたのだ。

誰がどう感じようと自由だが、何の根拠もなくただ感じたからという理由だけで神がいると断言できるなら、あちこちの神社はセオリツヒメでいっぱいになる。

スピリチュアルな体験は個人的なものに過ぎないので、公開にあたっては万人が認識できる客観的事実、一般社会の見解との線引きは明確にすべきだ。

私自身も自分のスピリチュアルな事象を書いているが、上述した線引きを明確にしている。

また、

御祭神とは別の神様の名を呼ぶのは、その神社の神様に対しても、その神様に仕えている神職の方々に対しても、大変失礼な行為である。

神様、神職の方々の気持ちに立って参拝していただきたい。

<セオリツヒメを参拝したいなら>

東京都内であれば、下記の神社をお勧めする。

小野神社
日比谷神社


御由緒にセオリツヒメの名が記されているので安心して参拝できる。

他の地域も同様に御祭神として明記されている神社をお勧めする。

近くの神社内に祓戸があれば、そちらを参拝するのもよい。

<大祓詞>

セオリツヒメに関する憶測記事を読むくらいなら、大祓詞を読むべきである。

大祓詞は古代からの公文書で祓戸四神が公式に記載されているからだ。

朗読すれば、その言葉の響、韻、調子から、古くから伝わる日本語の美しさ、そして祓いの力が感じられるだろう。

大祓詞自体がマントラである。

以下、原文を掲げるのでぜひ朗読してほしい。

(参考)兼右本「延喜式」(927年成立)巻八。
祓戸四神の名前が記され、神々の連携した働きにより天津罪・国津罪が消滅するとされる。

<セオリツヒメの啓示〜内的祓いの4つのプロセス>


大祓詞の前半は天孫降臨の神話を中心に書かれているが、終盤に祓戸四神が現れて、穢れを祓う具体的なプロセスが書かれている。

(参考)「大祓詞潮之八百会」(岡熊臣著) (1818年成立)
祓戸四神の働きが絵に記されている

私はその部分を繰り返し読んでいた時に突然、セオリツヒメからの啓示が降りた。

その啓示とは、大祓詞に隠されている内的な祓いのプロセスである。

そのプロセスは、水の神である四柱の女神により川と海で暗喩的に表現されているため、気づく者は極僅かに限られる。

以下がその啓示である。

<プロセス1 観察(セオリツヒメ)>


「高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣と云ふ神 大海原に持ち出なむ」

この一節は、心に次から次へと浮かぶ邪念、雑念、妄想を自分と切り離す作業を象徴している。

急流の水のように次から次へと押し寄せる邪念、雑念、妄想は自分の内にある穢れのもと(エゴ)が源流である。

思考それ自体が、エゴにより気ままに操作されている。

人は自ら思考していると思っているが、そう思わせること自体、エゴの巧妙な騙しである。

川の急流のように絶え間なく現れる思考を観察し、それがエゴの思考であることに気づかなければならない。

内にあるエゴを自分自身と同一視しないこと。

エゴの思考を他人のように観察し、過ぎ去るのを眺めること。

観察し続けるとエゴの思考が弱まり静寂が訪れる。

そのとき初めて自分自身で思考できる。

そして神々との交流も可能になる。


これがこの祓での要である。

世の中の悲劇は、エゴが生み出す思考を自分自身同一視することから生じている。

一瞬の怒りに自分自身を乗っ取られたため、人を殴ったり刃物で刺してしまうことすらある。

そしてその結果に満足したエゴはさっと隠れてしまう。

その時、人は本当の自分自身に戻る。

何ということをしてしまったんだと、愕然し、後悔する。

エゴと自分を同一視していると自分も周囲も不幸にしてしまう。

暴力、奪い合い、罵り合いに明け暮れるのは、自身のエゴを観察せず、エゴと一体化してしまっているからである。

<プロセス2 理解(ハヤアキツヒメ)>

「此く持ち出で往くなば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す速開都比賣と云う神 持ち加加呑みてむ」

速開津比売神社

自分のエゴを観察できるようになるとハヤアキツヒメのプロセスに入る。

観察して客観視できるようになったエゴは心の表面にいるエゴである。

心の奥深くの潜在意識に隠れているエゴもいる。そのようなエゴは普段気が付かず、瞑想を通してしか発見できない。

大祓の語句に

荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會

と、類似の語句が繰り返されるのは朗読上の韻の効果だけでなく、自分の意識の大海原をどんどん深く入り込む必要があることを意味するのである。

ハヤアキツヒメが祓われた罪を呑み込む、その内的な意味は、エゴがなぜ生じて存在しているのか、その原因を理解し、潜在意識の深い底にいるエゴまで発見することだ。

なぜ私はあの人を憎み批判するのか?

あの人は私より美しくて人気があるから
私だけパーティに呼んでくれなかったから
若い時に学費を出してくれなかったから
陰で私のことを悪く言っていたから、等々。

それらは怒りを発生させる外因ではあるが、さらに源を探ると、自分自身を認めてもらいたいという思いが源だとわかってくる。

その欲求の奥には劣等感、罪悪感などがあるかもしれない。

その劣等感または罪悪感はいつ生じたのか、幼い頃に酷く怒られたことが原因かもしれない。

過去の事象に目を背けることなく根本の要因を見つけて受けとめなければならない。

これがハヤアキツヒメの呑み込む(エゴを理解し受けとめる)プロセスである。

このエゴを理解することは非常に難しい。

自分の内側にこれほど醜いものがあること、忘れていた過去の辛い出来事は誰もが知りたくないし、思い出したくないからだ。
(そう思わせるのもエゴの戦術である)

多くの人が自分の中にある醜いエゴを見ようとしないで、臭いものに蓋をするように心の奥底にしまい込む。

そうすると後日、何かのきっかけで眠っていたエゴが目覚めて暴走し、取り返しのつかない悲劇を生むことになる。

だが真摯に自分のエゴと向き合い理解すれば、エゴは弱まっていく。

エゴが理解できれば、次のイブキドヌシのプロセスに入る。

<プロセス3 手放し(イブキドヌシ)>

「此く加加呑みてば、氣吹戸主と云う神 根國 底國に氣吹き放ちてむ」

氣吹き放つとはエゴを手放すことを指す。

エゴを理解したならば、それが可能となる。

だが、我々は無意識のうちにエゴに執着している。

あたりに怒り散らしていると周りが宥めすかしてくれる状態であれば、いつまでも怒り散らしたくなる。

そうすれば周りが色々と構ってくれたり気を遣ってくれるからだ。

学費を出してくれないと親を憎むが、学費が出ないなら勉強する必要はないので怠ける口実になる。
不合格だと悔しいが学費が出ないなら、親のせいにしながら受験しなくて済む。
(優秀な人なら勉強しながらアルバイトしたり奨学金を使ってでも合格して入学する)

エゴを理解すればエゴの手放しは簡単なはずだが、上述したエゴの矮小な報酬が快感であるため手放せない。

人を憎んで全てをその人のせいにしてしまえば、自分自身の人生に向き合わなくて済む。

矮小な報酬を味わっていると、自分自身の将来の大きな可能性を失ってしまうのだ。

この矮小な報酬を捨て去ることが、手放しのプロセスの真意である。

エゴにはたくさんの種類がある。

嫉妬、自惚れ、怠惰、吝嗇、怒り、憎しみ、色欲、所有欲、支配欲、等々

それらを全て一つづつ手放す必要があるが、たった一つのエゴを手放すだけでも周囲の反応が変わってくる。

多くの人が話しかけてきて、色々と悩み事を打ち明けてくれたり親切にしてくれるようになる。訳を聞いてみたら

「◯◯さん、変わったって評判よ。前はやたらと怒ってたけど、今は接しやすくなったねって」

私たちは人を変えるはできないが自分を変えることはできる。

自分が変われば周囲が変わり、環境、社会が変わり、世界全体が変わるのだ。

私たちの魂、ハートは神から分かれた永遠の存在、内なる神である。
(普段はそれがエゴに覆い隠されているだけ)

一つ一つのエゴを手放すごとに、至福感が増して神の本質である愛と光が放射されるので、周囲の人々もその恩恵を受けるのである。

<プロセス4 殲滅(ハヤサスラヒメ)>

「此く氣吹き放ちてば 根國 底國に坐す速佐須良比賣と云ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ
此く佐須良ひ失ひてば 罪と云ふ罪は存らじ」

プロセス3でエゴを手放せても、エゴはまだ完全には死んでいない。

内的な祓いをやめてしまうと、誘惑に出会いそれに負けるなら再びエゴが生じる。

また、新たに転生して新しい人生を迎えると、前世と同じ環境に出会ったり、前世で仲が良くなかった人と出会い、その時にまた同じエゴを作ってしまう可能性がある。

その場合は、来世でもこのステップ1から3の内的な祓いを続けることになるが、このハヤサスラヒメのプロセスは、その永遠のループを断ち切ってくれる。

このプロセスでは、手放したエゴを完全に殲滅させてくださいと、一心に神に祈り続ける。

その祈りは自分の命ですら差し出す覚悟でエゴの殲滅を願う。

その祈りが打算なく純粋であり、かつ、これまでのプロセスを経てきたのであれば、神の援助により奇跡が起こる。

ヨガで言うところのクンダリニーが覚醒する。

クンダリニーは一番下のチャクラの位置にある。

そのチャクラをルートチャクラ、根のチャクラという。

根の国と根のチャクラ、言葉が似ているのは偶然であると考えてほしい。

だがクンダリニーやチャクラが、根の国、底の国といった三次元世界ではない霊的な次元に存在するのは事実である。

このクンダリニーが覚醒したら、背骨に沿って上昇し、その一番下から順々にチャクラを開花させていく。

最後に頭頂にあるサハスラーラ・チャクラを開花させる。

これで人は神になる。

ハヤサスラヒメとサハスラーラ、言葉が似ているが、それ以上はコメントできない。
この段階まで達しようと真剣にワークに取り組んでいる人のみ体験できる秘密もある。

このクンダリニーを覚醒させようとしてハタ・ヨガの無理なポーズをとったり、無理やり腰を叩いたり、自称覚者の怪しげな儀式を受けたりする人もいるが、

そのような行為は絶対に行うべきではない。

体に異変が生じて自分でも制御できず、社会生活に適応できなくなる可能性があるからである。

これは内にあるエゴとの戦いを避け、超人になりたいという欲だけでクンダリニーを目覚めさせた結果である。

それに対して、このハヤサスラヒメのプロセスでは、これまで自分を祓い清めてきた上で、神の恩恵と慈悲によりクンダリーニを目覚めさせる。

祓いが足りないと神の恩恵も得られないのでクンダリーニは覚醒しない。

ゆえにこのハヤサスラヒメのプロセスは、100%安全でポジティブである。

<極僅かな人々>

以下は、直観によるもので数字は実際に数えたわけではない。

ただ、極僅かな人しか到達できない難しい道、だがその道を歩む価値は十分にある、ということを理解していただくために記す。

最初のセオリツヒメのプロセスを実践している人はおそらく、今地球上にいる人類のうち、1%程度だろう。

現在の地球の人口は70億人に達しているというから、約7000万人の人々がそのレベルにある。

彼らは天国の住人となるだろう。

なぜならば彼らは自身のエゴに振り回されないので、ごく自然に愛を実践するからである。

第二番目のハヤアキツヒメのプロセスでは上述のさらに1%程度ではないかと思われる。

つまり地球上で約70万人。

その人たちは賢者であり、いろいろな職業を通じて様々な分野、広範囲の地域、大きな組織のトップリーダーとして働いているはずだ。

第三番目のイブキドヌシのプロセス、自身のエゴへの執着を断ち切り、エゴを手放した人であるが、さらに1%程度だろう。

つまり地球上で7千人くらいしかいない。

彼らは世に出れば覚者、聖者と言われるレベルだが、ひっそりと暮らしているので人には気づかれない。

このレベルはもはや名声や富に執着せずそれらを手放しているか、実質的に放置しているので社会的に目立たない。しかしその内面は至福感で常に満たされている。

さて最後のハヤサスラヒメのプロセスを通過する人は、本当に少ない。0.1%と考えられる。

地球上で7人、誤差を入れても5〜10人といったところ。

本来はもっと多いはずだが、少ない理由は、

1)このプロセスを通過できるが敢えて通過しない
(人としての生命をまだ楽しみたい)

2)通過したら本人の自発的意志によりその時点でこの世を去る
(地球にいる必要がなくなり卒業)

3)通過した後の生涯を終えたら、もう地球に転生しなくなる。

2)、3)の場合、もし地球に生まれるとしたら

それは人類の救済のためである

<この啓示を公開するにあたっての神々の許可>


私はこの与えられた啓示を公開してもよいでしょうかと、瞑想の中でセオリツヒメに尋ねた。

その時は返事がなかったが、ある町を歩いていた時に再度セオリツヒメに啓示を公開しても良いでしょうかと心の中で頼んでみた。

その瞬間、前方から歩いてきた中学生くらいの女の子が突然、私に向かって柏手を2回打った。

これは夢でも瞑想中でもなく、リアルな現実社会の街の中での出来事である。

その子はなぜそのような動作をしたのか全く不明であるが、その不思議なシンクロニシティは、セオリツヒメがその女の子を通して私に授けた回答であった。

またこの投稿文を作成する明方、夢の中で、金色の弾丸が緑の葉の上に置かれていたヴィジョンを観た。

その弾丸は汚れていたので拭いて綺麗にしようかと思ったが暴発するのが怖くて見つめるだけで終わった。

それから起床して瞑想をしたが、そこで観たヴィジョンでは、その金色の弾丸が4つ並んでいた。今度は汚れておらず、4つの弾丸全てが光り輝き、目に眩しいほどに黄金色の光を放った。

祓戸四神は光り輝く黄金色の弾丸でシンボリックに現れた。

最初の弾丸がセオリツヒメで、4つ揃った黄金に輝く弾丸が祓戸の4女神である。

最初の弾丸が汚れていたのは、我々人間が本質を知ることもないままセオリツヒメだけを追い求めすぎているということだ。

弾丸は内なる祓、自分のエゴとの戦いを指す。この祓戸四神はいずれも静かで穏やかではあるが、その本質は気性の激しい、内なる穢れ(エゴ)との戦いの女神である。

セオリツヒメの後を追う者は多いが、セオリツヒメが人間に望む内なる祓いへの道を歩む者は少ない。

何はともあれ、4柱の女神様全員から公開の許可を与えられたことに感謝を捧げたい。

<最後に>

内的な「祓い」を軽んじて行わないと、いずれは内的な「禊(みそぎ)」を通して身を清めなければならない。

ここでいう内的な禊(みそぎ)とは、カルマによる清めである。

私たちのエゴは内的な祓いを毛嫌いし(自分の存在が消されるので)、自分が巣喰っている人間にカルマを背負わすこと、つまり強制的な禊を好む。

我々のハート、魂は内的な祓いを通じて神の道を歩みたいと願っているが、エゴたちはそれに激しく抵抗し、妄想、邪念、雑念を浴びせ続けて人を催眠状態にかけてがんじがらめにし続けている。

だから人類のごく僅かな人だけが覚醒を求めてそのエゴと戦い続ける。

神々はその戦いの援助を惜しまない。

以上がセオリツヒメの啓示である。

今回も読んでくれてありがとう。

さて、

4回に渡った交流編もこれにて終了する予定だったが、予期せぬ形で別の神様からアプローチされたので、次回はその話をしたい。

セオリツヒメがミステリアスな女神なら、次回紹介する神はさらにミステリアスだと思う。

それではまた。

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